ないなら作れ
プログラマの「ないなら作れ」という文化に言及したいのだが、そもそもそういう文化が実在していることの根拠になるような出典とかって誰かご存じないですかね?
Linuxのエピソードがクラフツマンの文脈に位置づけられて紹介されている
クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを「ブリコラージュ」と呼んだ。 人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。 教育学における構築主義の議論の中で、シーモア・パパートは分析的な解決手法と反対の方法として、挑戦、試行、遊びを通した問題解決と学習の方法について説明し、これをブリコラージュと表現している。 シェリー・タークル(Sherry Turkle)は1995年の著書『接続された心―インターネット時代のアイデンティティ』(Life on the Screen: Identity in the Age of the Internet)において、ブリコラージュの概念をプログラム開発や組織論に応用している。 彼女はプログラミングにおける「ブリコルール・スタイル」を、伝統的に構築されてきた(彼女の言うところの)「プランナー・アプローチ」に対して妥当なものとして擁護している。
これは経営学においてラーニングスクールと伝統的なプランニングスクールが対比されたのと似ている(戦略サファリ) DIY(Do It Yourself)の精神