絶対矛盾的自己同一4
絶対矛盾的自己同一4
絶対矛盾的自己同一4
四
直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考に反することであろう。私のいう所があるいは無理押しと考えられるかも知れない。しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、具体的な歴史的・社会的自己の立場からではない、即ち行為的・制作的自己の立場からではない。判断論理の立場からは、与えられたものといえば非合理的と考えられ、直観といえば論理を拒否すると考えられるでもあろう。しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生れ来るのであり、何処まで行ってもかかる立場を脱するものではない。与えられるものは歴史的・社会的に与えられるのであり、直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。矛盾的自己同一的現在の世界において与えられたものとして、我々の個人的自己に迫るものでなければならない。社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。如何に原始的であっても、単に本能的ではない、単に全体的ではない、多と一との矛盾的自己同一的でなければならない。我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。動物的群居と異なるものがあるのである。原始社会はトーテムとかタブーとかにより極度に束縛せられる。しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。 具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、社会的に与えられるものでなければならない、我々を包むものとして与えられるのである。矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである、私のいわゆる弁証法的一般者の自己限定として与えられるのである。社会的因襲的に過去からとして要請せられるのである。論理的には特殊的といっても、我々が歴史的・社会的であるかぎり、種的であるかぎり、本質的にそれから動かされざるを得ないのである。それはレヴィ・ブリュールの如く論理以前ということができるであろう。しかしプラトンの論理といえども、その根柢においてイデヤの分有にほかならない。単なる抽象的論理はかえって真の論理ではない。具体的論理は両面の矛盾的自己同一でなければならない。いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。作られたものから作るものへと、社会は弁証法的に進展し行くのである。しかし何処まで行っても、その根柢において、歴史的・社会的形成として、ポイエシス的に実在を把握し行くという行為的直観の過程たるを脱せない。具体的論理たるかぎり、爾しかいうことができる。しかし斯かくいうのは、論理の根柢に神秘的直観的なものを考えるということではない。何処までもポイエシス的に、実践的に、真実在に肉迫し行くことである。絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くことである。そこには何処までもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない。単に特殊的なるもの単に歴史的なるものを越え行かねばならない。そこには直観的に与えられるものが否定せられると考えられる。しかしそれは抽象的合理論者の考える如く、歴史的過去が否定せられるとか、特殊が単に一般の特殊となるとかいうことではない。原始社会というものが、既に矛盾的自己同一として成立するのである。而しかして我々の社会は何処までもかかる立場において発展し行くのである。否、矛盾的自己同一的なるが故に、作られたものから作るものへと発展し行くのである。 歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、我々が個人的自己であればあるほど、それを否定することができないまでに自己の生命の根柢に迫るのである。直観的に我々に迫るものは、世界史的に迫るものとなるのである。社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、固もと歴史的世界の生産様式であったのである。我々は個人的自己として、すべて直観的なるものを棄すてて、合理的となると考える。しかしそれはかえって自己同一的世界の形成要素として、真に行為的直観的となるということである。原始社会においての如く、我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである。否、我々は個人的なればなるほど、爾いうことができる。矛盾的自己同一的世界の形成要素として絶対矛盾的自己同一に対することによって我々は個人的自己となるのである。我々はこれに至って真に個人的自己となるということができる。而して我々は矛盾的自己同一的世界の自己形成によって、即ち具体的論理的にそこに至るのである。具体的論理は何処までも抽象論理を媒介とする。しかし抽象論理的媒介によって具体的論理に行くのではない。 ヘーゲルは人格がイデヤ的存在であるために、財産を有もたねばならぬという。具体的人格は歴史的身体的でなければならない。社会は作られたものから作るものへという歴史的生産作用として成立し、我々の自己はかかる矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会の形成要素としてあるのである。人格というものも、かかる立場から考えられねばならない。人間の社会は動物のそれと異なって最初より個人というものがあり、多と一との矛盾的自己同一において、全体的一に対する個物的多として人格的自己というものが成立するのである。矛盾的自己同一的世界において、個物的多として何処までも自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。故に我々は神に対することによって人格であり、而してまた神を媒介とすることによって私は汝なんじに対し、人格は人格に対するということでもある。社会は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、何処までも作られたものから作るものへと動いて行く。かかる過程は機械的でもなく合目的的でもない。多と一との矛盾的自己同一的過程として行為的直観的でなければならない。多が一の多、一が多の一、動即静、静即動として、そこに永遠なるものの自己形成即ちイデヤ的形成の契機が含まれていなければならない。文化というのはかかる契機において成立するのである。この故にそれは何処までも種的形成でありながら、絶対矛盾的自己同一的現在の自己形成として世界史的となる。矛盾的自己同一的に自己自身を形成する社会は、是ここにおいてイデヤ的形成的として国家となる、即ち理性的となるのである。かかる社会の形成要素として我々は具体的人格となるのである。かかる意味において国家が倫理的実体であり、我々の道徳的行為は国家を媒介とするということができるのである。文化的ならざる国家というものはない。非文化的な社会は国家の名に価せないものである。但、文化はイデヤ的として世界史的なるを以て或社会の種的形成でありながら、いつもそれだけのものではない。 歴史的世界は、生物の始から人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。而して作られたものから作るものへと動いて行くのである。動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。作られたものから作るものへとの歴史的進展の過程が、全体的一の過程と考えられる、即ち合目的的と考えられる。個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである、個物的多の世界に対して超越的でないということである、なお多の一であるということである。これに反して人間の世界においては、如何に原始的であっても既に多と一との矛盾的自己同一的である。しかしそれでも原始的社会にあっては、個物はなお真に独立的ではない、全体的一は抑圧的である。全体的一は単に超越的である。多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。絶対矛盾的自己同一の世界においては、個物が個物自身を形成することが世界が世界自身を形成することであり、その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。多と一とが相互否定的に一となる、作られたものから作るものへである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。それが文化的過程である。かかる立場において、個物的多を生かすことが全体的一が生きることであり、全体的一が生きることが個物的多が生きることである。社会が実体的自由として倫理的実体となり、歴史的世界の形成作用として我々の行為は道徳的意義を有つ。世界が絶対矛盾的自己同一として矛盾的自己同一的に、イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、真の道徳があるのである。
かかる意味において、文化的過程は倫理的でなければならない。文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、社会が倫理的実体であるのである。かかる世界のイデヤ的形成の要求が何処までも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、当為として意識せられるのである。芸術や学問も、かかる立場においてイデヤ的形成作用たるかぎり、倫理的意義を有するということができる。これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。マキアヴェルリが国家の本質とした「力」virt※(グレーブアクセント付きU小文字) というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。故に国家存在理由には、いつも矛盾が含まれている。しかしそこに国家の存在理由があるのでなければならない。歴史的世界に実在するものは、すべて自己矛盾的でなければならない。而して文化はかかる実在の自己形成から成立するのである。現在の十字架において薔薇ばらを認めることでなければならない、然らざれば真の文化ではない。芸術という如きものも、矛盾的自己同一的な社会の自己形成作用として生れるのである。かかる意味において、私は芸術が社会の儀式から生れるという考に興味を有するのである(Jane Harrison, Ancient Art and Ritual)。而してそれは何処まで進んでも、かかる立場が失われないであろう。芸術も具体的論理的という所以ゆえんである。しかし矛盾的自己同一的形成が深くなればなるほど、行為的直観の現実を中心として種々なる文化が相異なる方向に分化発展するのである。 絶対矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへとの自己形成の過程において、イデヤ的である、直観的なるものを含むといった。しかし私はそこに世界の自己同一を置くのではない。もし然しかいうならば、それは絶対矛盾的自己同一の世界ではない。絶対矛盾的自己同一の世界においては、自己同一は何処までもこの世界を越えたものでなければならない。それは絶対に超越的でなければならない、人間より神に行く途みちはない。個物的多と全体的一とは、この世界において何処までも一とならないものでなければならない。この世界に内在的に、イデヤ的なるものに、自己同一を置くかぎり、世界は真に自己自身から動く現実の世界ではない。この故に絶対矛盾的自己同一の世界は、イデヤ的なるものをも否定する世界でなければならない、文化をも否定する世界でなければならない。イデヤ的世界は仮現の世界である。イデヤ的なるものは、生れるもの、死に行くもの、変じ行くもの、過程的なものでなければならない。世界が絶対矛盾的自己同一的なる故に、その自己形成の過程が単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。絶対弁証法的なるが故にイデヤ的直観的契機が含まれるのである。故に文化と宗教とは何処までも相反する所に、相結合するということができる。私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、それは絶対の断絶の連続ということでなければならない。それは何処までも超越的なるものが自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。宗教は文化を目的とするものではない、かえってその逆である。しかし真の文化は宗教から生れるものでなければならない。 絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を有もたない。矛盾的自己同一として、いつもこの世界に超越的である。この故に限定するものなき限定として、その自己形成がイデヤ的である。斯かくこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。それは文化発展によって減ぜられ行く矛盾ではなくして、かえって益※(二の字点、1-2-22)明あきらかとなる矛盾であるのである。超越的なるものにおいて自己同一を有つ矛盾的自己同一的世界においては、作られたものから作るものへとの行為的直観的なポイエシス的過程は何処までも無限進行でなければならない。我々はその方向において絶対者に、神に結び附くのではない。我々は我々の自己成立の根柢において神に結合するのである(我々は被創造物であるのである)。
過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、我々は生命の始においてかかる約束の下に立たねばならない。我々はいつも絶対に接しているのである。唯これを意識せないのである。我々は自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身を翻して絶対に結合するのである、即ち神に帰依するのである。これを回心えしんという。そこには自己自身を否定することによって、真の自己を見出すのである。ルターは基督キリスト者の自由を論じて、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、すべてのものに奉仕する従僕であるという。故に我々はこの世界の中に自己同一を置く我々の行為によって宗教に入るのでなく、かかる行為そのもの、自己そのものの自己矛盾を反省することによって宗教に入るのである。而して我々が斯く自己自身の根柢において自己矛盾に撞着どうちゃくするというも、自己自身によるのでなく絶対の呼声でなければならない。自己自身によって自己否定はできない(ここに宗教家は恩寵おんちょうというものを考える)。この故に宗教は出世間的と考えられる。しかし右にもいった如く、宗教は絶対矛盾的自己同一的立場として、それによって真の文化が成立するのでなければならない。我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。而して超越的一者に対することによって自己が自己であるということは、同時に私がアガペ的に隣人に対することである。他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基もとづくものでなければならない。かかる道徳的制約の下に、矛盾的自己同一的に、自己自身を形成する世界として、作られたものから作るものへと、世界はイデヤ的形成的でなければならない。
宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。しかしそれは自力作善さぜんの道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。親鸞しんらんが『歎異抄たんにしょう』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味あじわうべきである。また今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容あいいれないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。
東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)祇今聴法者、不是※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)四大、能用※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)四大、若能如是見得、便乃去住自由という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。
多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。而して斯かく超越的一者に対するということは、内在的にはアガペ的に個物が個物に対することである。我々は作られたものから作るものへとして、歴史的にこの世界から生れるものでありながら、いつも我々は直接にこの世界を越えたものに対するものであり、即ちこの世界を越えたものである。そこに個物と世界とが対立する。前に行為的直観の立場において与えられたものというのは、我々の個人的自己に迫るもの、我々の魂を奪うものといったのは、これによるのである。それは我々の身体的生命を否定するのみならず、我々の魂を否定するものでなければならない。超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界の個物として、我々はこれに対して何処までも対立的である。与えられたものとして自己自身に迫り来るものに自己を奪われるかぎり、超越的一者において自己を有つ真の個物ではない。我々は何処までも物に奪われてはならない。そこに無上命法の根拠があるのである。しかしそれはまた何処までも絶対矛盾的自己同一的世界の個物としてでなければならない。然らざれば、単なる道徳的自尊として一種のヒュブリスたるに過ぎない。我々が右の如き個物として、人格的であればあるほど、作られたものから作るものへとして、イデヤ的形成的でなければならない。それは我々が創造的世界の創造的要素として、超越的一者の機関となるということでなければならない。そこに道徳的ということが、即ち宗教的ということであるのである。 世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一を有もち、我々は超越的一者に対することによって個物なるが故に、我々は個物的なればなるほど、現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を越えて、反省的であり、思惟的であるのである。世界が自己自身を越えたものにおいて自己同一を有つという時世界は表現的である、我々はかかる世界の個物として表現作用的である。而して世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。反省とは過去と未来とが現在において結合することでなければならない。かかる方向において過去と未来とが何処までも現在において否定せられ、無限に動き行く世界を一つの現在として把握するのが思惟の立場である。思惟の立場においては、表現的に世界を一つの現在として把握するのである。矛盾的自己同一的世界がそこには自己自身の中に自己同一を有つものとして把握せられるのである。自己矛盾的世界を非矛盾的に把握するのである。この故に思惟の立場は何処までも自己矛盾的である。而してそこに思惟と実践とが何処までも対立する、純なる知識の立場というものが成立するのである。世界が矛盾的自己同一として、イデヤ的形成的なればなるほど、我々は個物的として思惟的となるということができる。無限なる過去から無限なる未来へとして、何処までも自己自身の中に自己同一を有たない世界が、自己自身の中に自己同一を有つものとして推論式的一般者と考えられるのである。そこに科学的知識というものが成立するのである。 右の如く絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。斯く世界が何処までも自己自身の中に自己否定の契機を有つということが、世界が矛盾的自己同一的たる所以ゆえんであるのである。然らざれば、それは矛盾的自己同一的世界ではないのである。しかし絶対矛盾的自己同一的世界を何処までもかかる立場から把握して行くこと、即ち内在的に自己同一的に見るということは、それを抽象化することでなければならない。具体的論理はその否定的契機として抽象的論理を含まねばならないが、抽象的論理の立場から具体的論理的に考えることはできない。絶対矛盾的自己同一的世界は何処までも自己自身の中に、自己同一を有つことはできない。それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、含まれるものでなければならない。我々の自己が歴史的制作的自己として実在を把握し行く所に、具体的論理というものがあるのである。そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、自己自身を明にするといい得るであろう。我々の意識は自己矛盾的に世界の意識となるのである。故にそこに我々が実践によって実在を映すとか、物が物自身を証明するとかいうこともできる。知識は抽象的分析から始まるといっても、如何なる立場から如何にということは、作られたものから作るものへとして、自己が如何なる立場にあるかの自覚からでなければならない。知識は歴史的過程でなければならない。私は右の如き歴史的生命の自覚という如きものを弁証法的論理というのである。故に科学も弁証法的である。但ただそれは作られたものからというに即するが故に、環境的といわねばならない。その立場からのみ歴史的生命の世界を見ることは、抽象的たるを免れない。 我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。アリストテレスのいう如く、身体的発展は自然のポイエシスである。しかし我々の社会的生命において、それが真に技術的となる。我々の身体は歴史的身体的と考えられる。かかる立場から、我々の歴史的生命は何処までも技術的といい得るであろう。しかしまた逆に歴史的生命が技術的ということは、矛盾的自己同一的に、何処までもイデヤ的形成的ということでなければならない。故に種的形成からイデヤ的形成に発展する。かかる意味においてのみ、特殊が即一般といい得るのである。