絶対矛盾的自己同一2
絶対矛盾的自己同一2
絶対矛盾的自己同一2
二
絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、矛盾的自己同一的に現在が形を有もち、現在から現在へと自己自身を形成し行く世界である。世界がいつも一つの現在として、作られたものから作るものへである。矛盾的自己同一として現在の形というものが世界の生産様式である。此かくの如き世界がポイエシスの世界である。かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くということができる。我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。働くという時、我々は個人的主観から出立する。しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。働くことは働かれることでなければならない。我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。斯かくいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処どこまでも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕はらむ一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未いまだ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。そこには因果的に過去からの必然として、また合目的的に未来からの必然として相対し相働くのではない。矛盾的自己同一的に、一つの現在として現在から現在へと動き行く世界、作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界においてのみ、爾しかいうことができるのである。 自己自身を形成し行く世界の形から形へということは、あるいは飛躍的とか無媒介的とか考えられるであろう。個物の働きというものがないとも考えられるであろう。しかし私の考はその逆である。個物とは何処までも自己自身を表現的に限定するものでなければならない、表現作用的に働くものでなければならない。世界の有つ形とは、かかる個物の相互否定的統一、矛盾的自己同一として現れるものでなければならない。それは逆に無数なる個物の表現作用が絶対矛盾的自己同一的世界の無数の仕方においての自己表現といわなければならない。再び我々の自己の意識統一によって考えて見よう。我々の意識現象とは、その一々が独立であり、自己表現的である。その一々が自己たるを主張し要求するといってよかろう。しかも我々の自己というのはジェームスのいう羊群の焼印の如きものではなく、かかる自己自身を表現するものの否定的統一として、形を有ったものでなければならない。それが我々の性格とか個性とかいうものである。自己というものが超越的に外にあるのでなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。しかもそれを否定的に統一し行く所に、真の自己というものがあるのである。我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に結合し、全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。意識統一というものも、通常は世界から離して抽象的に(心理学的に)考えられるのであるが、具体的には自己自身を形成する世界の表現作用的個物として考うべきであろう。 一々の個物が何処までも個物的として表現作用的に自己自身を限定するというべき絶対矛盾的自己同一の世界において、個物的多が自己否定的に単に点集合的に考えられる時、それが物理的世界である。物理的世界は数学的記号によって表される数学的形の世界である。個物がそれぞれの仕方において世界を表現すると考えられる時、それが生命の世界である。その環境に即したものが生物的生命の世界である。そこでは個物はなお真に表現作用的でない。個物が何処までも表現作用的に自己自身を限定するという時、人間の歴史的世界である。世界は絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く。生物的世界はいうまでもなく、物質的世界も形を有つ。しかしそれは生産的でない、創造的でない。故になお現在から現在へ、形から形へといわれない、なお真に作られたものから作るものへとはいわれない。過去と未来とが相互否定的に現在において結合する所、そこにはいつも過去から未来へという時が消されると考えられる、即ち意識面がある。歴史的世界は意識的である。表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる、作用と形というものが無関係と考えられる。しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。物理現象においても爾しかいわなければならない(ロッチェはその『形而上学』においてこの点を明あきらかにしていると思う)。全世界の有つ形、私のいわゆる生産様式と作用とは離して考えることはできない。人は多く作用というものを全世界との関係から離して抽象的に考えている。物理作用とか、生物的作用とかいうものでも、爾考えることができる。しかし表現的作用というものは、爾考えることはできない。主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる絶対矛盾的自己同一の世界においては、物質的世界というものも既に作られたものであり、作られたものは環境的として主体を形成し行く。物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。矛盾的自己同一ということが、抽象論理的に考えられないといっても、実在とは此かくの如く自己自身から動くものであろう。 我々がこの世界において働くということは、物を形成することであり、私が行為的直観的に物を見、物を見るから働くというのは、右の如く個物が何処までも表現的に世界を形成することによって個物であり、逆にそれが絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の一角であるというによるのである。行為的直観というのは、我々が自己矛盾的に客観を形成することであり、逆に我々が客観から形成せられることである。見るということと働くということとの矛盾的自己同一をいうのである。過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、現在が形を有もつという時、そこに私のいわゆる自己自身を形成する世界があるのである。世界は一つの現在として、作られたものから作るものへと無限に自己自身を形成し行く。我々はかかる世界の個物として意識的に世界を映すことによって形成的であり、而して自己矛盾的に世界を形成し行く、即ち表現作用的である(表現作用とは世界を媒介として働くことである)。そこに我々は我々の生命を有つのである。
行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。かかる意味において物を見ることは世界を映すことである。ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、此かくの如きことでなければならない。物を具体概念的に把握するというのは、(作られて作るものとして)物を歴史的生産様式的に把握することでなければならない。かかる立場から把握せられる物の本質がその具体概念である。具体概念とは抽象作用によって作られるのではない、行為的直観的に把握せられるのである。そこに作ることが見ることである、表出即表現である。我々は個物として世界を映すことから働き、行為的直観的に物を構成することによって、実在を歴史的生産様式的に即ち具体概念的に把握するのである。この故に芸術家の創造作用の如きものでも、制作によって生産様式的に物の具体概念を把握するということができる(かかる意味において美も真である)。しかし無限なる過去と未来とが現在において結合し、絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、超越的方向においては全く記号的に表現せられる世界でなければならない。世界のかかる方向においての生産様式即ち物の具体概念を、行為的直観的に把握し行くのが実験科学である。そこでは私の行為的直観とは科学的実験ということである。物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。私の行為的直観とは単に受働的なる直覚をいうのではない。また単に行為を否定した受働的な直覚という如きものは、抽象概念的に考え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。 具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも此処ここにロードゥスがある、此処で踊れといわなければならない。行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事は此ここに決せられるのである。思惟の真偽も此に決せられるのである。我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。単にかかる作用が作用として形成的なる時、それは抽象論理的である。抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである(即ち言語的に)。然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くのが、具体的論理である。行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。
個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということでなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない。動物の生命というものも、既に此かくの如きものでなければならない、即ち既に意識的でなければならない。動物といえども、高等なればなるほど、いわば一種の世界像を有っていなければならない。無論それは意識的にとか自覚的にとかいうのではない。しかし動物の本能作用というのは一種の形成作用でなければならない。昔、ハルトマンなどの考えた如き無意識ともいうことができる。動物は無意識的に自己自身を形成する世界を宿すことによって本能的であるのである。
絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。生物の身体的生命というのは、かかる形成作用でなければならない。是ここにおいて個物は既に機械的でもなく、単に合目的的でもなく、形成的でなければならない。動物的身体的であっても、意識的であるかぎり斯かくいうことができる。この故に動物の動作は衝動的であり、その形成において本能的であり、即ち身体的ということができる。そこに見ることが働くことであり、働くことが見ることである、即ち構成的である。見ることと働くこととの矛盾的自己同一的体系が身体である。しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない。生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由でない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である、歴史的主体的ではない。なお真に作られたものから作るものへではなくて、作られたものから作られたものへである。
(私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、作られたものから作るものへということであるのである。生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。単に主体的ということそのことがかえって環境的たる所以ゆえんである。自己自身を環境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。そこでは環境は与えられたものでなく、作られたものであるのである。そこに真に主体が環境を脱却するということができる。生物的生命の世界はなおアン・ウント・フュール・ジヒの世界ではない。)
生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に爾しかいうことができる。本能というのも、生物と世界との関係から理解せられなければならない(行動心理学においてのように)。人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起るのである、制作的身体的に物を見ることから起るのである。行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。 我々は制作的身体的に物を見、斯かく物を見ることから働く制作的身体的自己においては、見るということと作るということとが矛盾的自己同一的である。物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。それが真の具体的論理の立場であろう。そこに真なるものが実なるものである。抽象的知識とはかかる立場を離れたものとも考えられるであろう。しかしかかる実験の立場を離れて客観的知識というものはない。学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。而してその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到いたると考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処ここから出立したものであり、此処に戻り来るものでなければならない。無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し[世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成]するという時、世界は何処までも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。しかしそれはまた何処までも我々の歴史的身体を離れるということではない。 絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を有もって生れ来るのである。与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。成し遂げらるべく与えられたものである、即ち身体的に与えられたものである。我々は無手でこの世界に生れて来たのではない、我々は身体を有って生れて来たのである。身体を有って生れて来るということそのことが、既に歴史的自然によってそこに一つの課題が解かれたといい得ると共に(例えば昆虫こんちゅうの眼ができたという如く)、矛盾的自己同一として無限の課題が含まれているのである。我々が身体を有って生れるということは、我々は無限の課題を負うて生れることである。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。現実とは我々を包み、我々を圧し来るものでなければならない。単に質料的のものでもなければ、媒介的のものでもない。我々の自己に対して、汝なんじこれを為なすか然らざれば死かと問うものでなければならない。世界が一つの矛盾的自己同一的現在として私に臨む所に、真に与えられたものがあるのである。真に与えられたもの、真の現実は見出されるものでなければならない。何処に現実の矛盾があるかを知る時、真に我々に対して与えられたものを知るのである。単に与えられたものというものは、抽象概念的に考えられたものに過ぎない。我々は身体的なるが故に、自己矛盾的であるのである。行為的直観的に我々に臨む世界は、我々に生死を迫るものである。 絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。斯かくいうのは、我々人間は何処までも社会的ということでなければならない。ホモ・ファーベルはゾーン・ポリティコンであり、その故にまたロゴン・エコーンである。家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基もとづくとも考えられるであろう。ゴリラが多くの牝めすを連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。しかしマリノースキイなどのいうように、動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない(Malinowski, Sex and Repression in Savage Society)。エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。本能というのは、有機的構造に基いた、或種に通じての行動の型である。動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。それは人間の社会的構造とは異なったものである。人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。多くの人が原始社会を唯団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始はじめから個人というものを含んでいるという考に同意したいと思うのである。原始社会にも罪というものがあるのである(Malinowski, Crime and Custom in Savage Society)。それは社会というものが動物の本能的集団と異なり、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。原始社会構造において近親相姦そうかん禁止というものが強き意義を有するように、社会は本能の抑圧を以て始まると考えられる。夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。 かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える所以ゆえんである。社会は一つの経済的機構と考えられるであろう。社会は何処までも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。しかしそれはいうまでもなく、ポイエシス的でなければならない。人間は用具を有もつということによって、動物から区別せられる。そして作られたものから作るものへとして、社会の経済的機構が発展して行く。家族制度の如きも、一面にはかかる経済的機構から考えられるであろう。財産制度の起源については、色々の学説があるようであるが、我々が物において自己の身体を有つという歴史的身体的形成から成立すると考えなければなるまい。
矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。而して矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。それが環境が何処までも自己否定によって主体的となるということである。
矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、環境が自己否定によって主体的となることによって環境でなければならない。
而して世界が斯かくあるということは、何処までも自己自身の中に世界を映し表現的形成的である個物が、自己自身を形成する世界の一角として爾しかあるということでなければならない。かかる世界において個物が客観界において自己を有もつ、即ち物において自己を有つということが我々が財産を有つということである。故に我々が財産を有つということは、単に個人の働きによって爾いい得るのではなく、客観的世界によって承認せられなければならない、世界において或個人の物として表現せられねばならない、主権から認められなければならない。多と一との矛盾的自己同一として表現的に自己自身を形成する世界は、法律的でなければならない。我々が物において身体を有つということは法律的でなければならない。ヘーゲルによるも(Philos. d.Rechts. §29)、存在が自由意志的存在と見られることが法律である。作られたものから作るものへとして、我々がポイエシス的である、歴史的身体的であるということは、我々の社会が本能的ではなく、既に法律的であるということでなければならない。ポイエシスということが可能なるのは、法律的に構成せられた世界においてでなければならない。人類学者のいう所によれば、原始社会の生産作用も広義において法律的に支配せられているのである。而してまたそれらの社会制度は逆にポイエシス的生産の可能発展の形態ということができる、即ち特殊的な一種の歴史的生産様式であるのである。作られたものから作るものへとしての歴史的生産の世界は、環境的には何処までも物質的生産的でなければならない。そこにマキァヴェリ的なシュターツ・レーゾンの根拠がある。そしてそれが歴史的生産的世界の成立の条件とならねばならない。
作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。社会は経済機構を有たなければならない、物質的生産的様式でなければならない。しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない。世界が一つの現在として自己形成的だということである。そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。世界が矛盾的自己同一的に絶対に触れるということがなければならない。社会成立の根柢に宗教的なるものが働いているのである。故に原始社会はミトス的である。原始社会においては、神話は人間世界を支配する生きた実在であるのである(Malinowski, Myth in Primitive Psychology)。古代宗教は宗教というよりもむしろ社会制度であるといわれる(Robertson Smith)。私は社会形成の根柢にはディオニュソス的なものが働いていると思う。ディオニュソス的舞踊から神々が生れたというハリソンの如き考に興味を有つのである(Jane Harrison, Themis)。或地理的環境に或民族が住むことによって、或文化が形成せられると考えられる。地理的環境が文化形成の重大な因子となるはいうまでもない。しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。民族というのも、形成することによって形成せられ行くものでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。動物においてはそれは本能的であるが、人間においてはそれはデモーニッシュである。そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。民族というのは、かかるデモーニッシュな形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。 動物の本能的動作においても、既に爾しか考えられる如く、我々の行為は我々が自己矛盾的に世界を映すということから起る、即ち歴史的身体的であるということから起る。而してそれは我々の行為は社会的に起るということである。私と汝との人格的対立も、社会的発展から出て来るのである。子供の自己意識は、社会的関係から発展するものでなければならない。社会というものが、矛盾的自己同一的現在の自己形成として成立するものなるが故である。生物的生命には、矛盾的自己同一的形成として生物的身体即ちいわゆる身体というものがある如く、歴史的生命には行為的直観的に歴史的身体即ち社会というものがあるのである。行為的直観というのは、矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界を、かかる世界の個物として我々が生産様式的に把握することである。ヘーゲルのいわゆる概念的に把握することである。ポイエシス的に実在をベグライフェンすることである。かかる行為的直観的なる歴史的身体的社会は、絶対矛盾的自己同一によって基礎附けられたものとして、何処までも自己矛盾的に自己自身を越え行かなければならない。しかしそれは何処までも自己自身を越え行くといっても、その実在的地盤を離れるのではない。これを離れれば、唯抽象的世界となるのほかない。単に抽象論理の立場から行為的直観の現実を否定することはできない。否定は現実の自己矛盾からでなければならない。与えられるものは、歴史的個人的に与えられるのである。生命の矛盾は生命の成立する所にある。そしてそれは何処まで行っても矛盾である。人間に至って矛盾の極に達する。矛盾の立場からは、何処までも矛盾を脱することはできない。宗教家が原始罪悪というものを考える所以である。禁断の果実を食ったアダムの子孫として、我々は原罪を負うて生れるのである。