善の研究:第四編 宗教:第三章 神
善の研究:第四編 宗教:第三章 神
神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直ただちにこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestation である。外は日月星辰せいしんの運行より内は人心の機微に至るまで悉ことごとく神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢において一々神の霊光を拝することができるのである。
ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西に亙わたりて偉大なる統一力が支配しているようである。更に進んで考える時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此ひし密接の関係がある。我々はこの二者の統一を考えずには居られない、即ちこの二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲学も科学も皆この統一を認めない者はないのである。而しかしてこの統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。しかし実在の真相は果してかくの如き者であろうか。
余が前に実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。具体的事実に近づけば近づくほど個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的なる者である。この故に原始的説明は神話においてのように凡すべて擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的となり抽象的となり遂に純物質という如き概念を生ずるに至ったのである。 しかしかくの如き説明は極めて外面的で浅薄なると共に、
かかる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んでいることを忘れてはならぬ。 最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰ひやくはこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒てんとうした者といわねばならぬ。
ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総すべての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。ロイスも「自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている」といっている(Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一というのも畢竟ひっきょう意識統一の一種にすぎないということになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実においては主客の対立なく、精神物体の区別なく、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。ただかくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続においては主客の別はない、ただこの対立は反省に由って起ってくるのである。実在体系の衝突の時、その統一作用の方面が精神と考えられ、これが対象としてこれに対抗する方面が自然と考えられるのである。しかしいわゆる客観的自然もその実主観的統一を離れて存することはできず、主観的統一というも統一の対象即ち内容なき統一のある筈はない。両者共に同一種の実在であってただその統一の形を異にするのである。且つかくいずれか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる実在である。かかる実在は両者の合一において始めて完全なる具体的実在となるのである。精神と自然との統一というものは二種の体系を統一するのではない、元来同一の統一の下にあるのである。
かく実在に精神と自然との別なく、従うて二種の統一あることなく、ただ同一なる直接経験の事実その物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいった実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は体系をなした者である。超個人的統一に由りて成れるいわゆる自然現象といえどもこの形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己発展というのが凡ての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做みなされる如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。 然らばかくの如き意味において宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者であろうか。精神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質という如き者は上にいったように、説明の為に設けられたる最も浅薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とはいわゆる知情意の作用であって、これを支配する者はまた知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一の統一力があって、これらの現象はその発現である。今この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格であるといわねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現ということとなるのである。しかしかくいうも余は或一派の人々の考うるように、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特殊なる思想、意志を有する我々の主観的精神の如き者と考えることはできぬ。神においては知即行、行即知であって、実在は直に神の思想でありまた意志でなければならぬ(Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol. を見よ)。我々の主観的思惟および意志という如き者は種々の体系の衝突より起る不完全なる抽象的実在である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスという人は『人および神の人格』と題する書中において、人格の要素として自覚、意志の自由、および愛の三つをあげている。しかしこの三つの者を以て人格の要素となす前に、これらの作用が実地において如何なる事実を意味しおるかを明あきらかにして置かねばならぬ。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる、この外に自己の本体というようの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得るように思うが、そは心理学者のいう如くこの統一に伴う感情にすぎない。かくの如き意識あってこの統一が行われるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。この統一其者そのものは知識の対象となることはできぬ、我々は此者このものとなって働くことはできるが、これを知ることはできぬ。真の自覚はむしろ意志活動の上にあって知的反省の上にないのである。もし神の人格における自覚というならば、この宇宙現象の統一が一々その自覚でなければならぬ。たとえば三角形の総べての角の和は二直角なりというは何人も何の時代にもかく考えねばならぬ。これも神の自覚の一つである。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといってよかろう。万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。 次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻ただに不合理であるばかりでなく、此かくの如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。かくいえば、神は自己の性質に束縛せられその全能を失うように見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くというのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは両立することはできまいと思う。アウグスチヌスも「神の意志は不変であって時に欲し時に欲せず、況いわんや前の決断を後に翻ひるがえす如きものにあらず」といっている(Conf. XII. 15)。選択的意志というが如きはむしろ不完全なる我々の意識状態に伴うべきものであって、これを以て神に擬すべきものではない。たとえば我々が充分に熟達した事柄においては少しも選択的意志を入るるの余地がない、選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいう如く知るという中には已すでに自由ということを含んでおる、知は即ち可能を意味しているのである。しかしその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいうべきではない、直覚も知である。直覚の方がむしろ真の知である。知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神は凡ての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展その者が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいったように神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトはまた神の人を愛するは随意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといっている。
以上論じたように、神は人格的であるというも直にこれを我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精神の始であり終であり、兼ねてまた実在の真相である。基督キリストが心の清き者は神を見るといい、また嬰児の若ごとくにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいているのである。純粋経験というも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があって、反省的意識はこれに由って成立するのである、即ちこれもまた一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粋経験の統一があって、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、またエッカルトの「神性」 Gottheit およびベーメの「物なき静さ」 Stille ohne Wesen といえる語の意味も窺うかがうことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然たんぜん不動でなければならぬ、而も変化はこれより起ってくるのである、即ち動いて動かざるものである。また意識の統一は知識の対象となることはできぬ、総べての範疇を超越している、我々はこれに何らの定形を与うることもできぬ、而も万物はこれに由りて成立するのである。それで神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢において直に神の面影に接することができる。故にベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といいまた「最深なる内生に由って神に到る」といっている(Morgenr※(ダイエレシス付きO小文字)te)。
或人はいうであろう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、よし精神的なりとするも理性または良心と何らの区別なく、その生きた個人的人格を失うようになるではなかろうか。個人性はただ不定的自由意志より生ずることができるのである(これかつて中世哲学においてスコトゥスがトーマスに反対せる論点であった)。かかる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教においては罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン Erskine of Linlathen は「宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由って分れる」といっている。しかしヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemeinheit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何らの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というような者には個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己おのれ自身を限定する self-determination の謂いいである。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりはかえって個人的自覚は起らぬであろう。個性に理由なし ratio singularitatis frustra quaeritur という語もあれど、真にかくの如き個人性は何らの内容なき無と同一でなければならぬ。ただ具体的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現わすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現わすことができるのである。 神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上にいった意味で個人的であるといい得るように、神も個人的といい得るであろう。理性や良心は神の統一作用の一部であろうが、その生きた精神その者ではない。かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである(理性や良心はその声である)。ただ我々の小なる自己に妨げられてこれを知ることができないのである。たとえば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもっておった。氏が静に自分の名を唱えていると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧もうろうたるのではなく最も明晰確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといっている。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。また文学者シモンズ J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共にその根柢にある本来の意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといっている。その外、宗教的神秘家のかかる経験を挙げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experience, Lect. XVI, XVII)。或はかかる現象を以て尽ことごとく病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由って定まってくる。余がかつて述べたように、実在は精神的であって我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは毫ごうも怪むべき理由がない。我々の小意識の範囲を固執するのがかえって迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右のように常人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思う。