善の研究:第二編 実在:第六章 唯一実在
善の研究:第二編 実在:第六章 唯一実在
実在は前にいったように意識活動である。而して意識活動とは普通の解釈に由ればその時々に現われまた忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一生の経験、大にしては今日に至るまでの宇宙の発展、これらの事実は畢竟ひっきょう虚幻夢の如く、支離滅裂なるものであって、その間に何らの統一的基礎がないのであろうか。此かくの如き疑問に対しては、実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べて置こうと思う。
意識活動は或範囲内では統一に由って成立することは略ほぼ説明したと思うが、なお或範囲以外ではかかる統一のあることを信ぜぬ人が多い。たとえば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であって、もはや一の意識とは看做みなされないと考えている人がある。しかし直接経験の立脚地より考えて見ると、此の如き区別は単に相対的の区別であって絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考えている思惟または意志等について見ても、その過程は各おのおの相異なっている観念の連続にすぎない。精細にこれを区別して見ればこれらの観念は別々の意識であるとも考えることができる。しかるにこの連続せる観念が個々独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考え、または一の事業を計画するという場合には、明あきらかに同一の意識が連続的に働くと見ることができる、ただ時間の長短において異なるばかりである。
意識の結合には知覚の如き同時の結合、聯想思惟の如き継続的結合、および自覚の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であって、同一の性質より成り立つ者である。
意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よしその内容において同一なるにせよ、全然異なった意識であるという考は、直接経験の立脚地より見たのではなくて、かえって時間という者を仮定し、意識現象はその上に顕われる者として推論した結果である。意識現象が時間という形式に由って成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできぬ。時間はただ一つの方向を有するのみである。たとい全く同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上已すでに同一とはいわれないこととなる。しかし今直接経験の本に立ち還って見ると、これらの関係は全く反対とならねばならぬ。時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬことになる。
直接経験より見れば同一内容の意識は直ただちに同一の意識である、真理は何人が何時代に考えても同一であるように、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生という者は此の如き一体系を成せる意識の発展である。
この点より見れば精神の根柢には常に不変的或者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのである、この中心点がいつでも「今」である。
右にいったように意識の根柢に不変の統一力が働いているとすれば、この統一力なる者は如何なる形において存在するか、いかにして自分を維持するかの疑が起るであろう。心理学では此の如き統一作用の本を脳という物質に帰している。しかしかつていったように、意識外に独立の物体を仮定するのは意識現象の不変的結合より推論したので、これよりも意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実である。この統一力は或他の実在よりして出で来きたるのではなく、実在はかえってこの作用に由りて成立するのである。人は皆宇宙に一定不変の理なる者あって、万物はこれに由りて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねてまた意識内面の統一力である、理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であって、時間、空間、人に由って異なることなく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。 普通に理といえば、我々の主観的意識上の観念聯合を支配する作用と考えられている。しかし斯かくの如き作用は理の活動の足跡であって、理其者そのものではない。理其者は創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ることのできないものである。
普通の意義において物が存在するということは、或場処或時において或形において存在するのである。しかしここにいう理の存在というのはこれと類を異にしている。此の如く一処に束縛せらるるものならば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた真の理でない。
個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直ただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做みなすことができる。この考を推し進めて行く時は、啻ただに一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由に由って連結して一と見做すことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々はこれに由りて互に相理会し相交通することができる。啻にいわゆる普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆この社会精神の一細胞にすぎないのである。
前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるるように見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。
我々のいわゆる客観的世界と名づけている者も、幾度か言ったように、
客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。苟いやしくも我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。