善の研究:第二編 実在:第九章 精神
善の研究:第二編 実在:第九章 精神
自然は一見我々の精神より独立せる純客観的実在であるかのように見ゆるが、その実は主観を離れた実在ではない。いわゆる自然現象をばその主観的方面即ち統一作用の方より見れば凡すべて意識現象となる。たとえばここに一個の石がある、この石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現じた者とすれば自然となる。しかしこの石なる者を直接経験の事実として直ただちにこれを見れば、単に客観的に独立せる実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であって、即ち我々の意識統一に由って成立する意識現象である。それでいわゆる自然現象をば直接経験の本に立ち返って見ると、凡て主観的統一に由って成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりというのはこの立脚地より見たのである。 我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念を有もっていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であって、客観的実在という者はなくなる。客観的実在というのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。
然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固もとより実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。たとえば爰ここに一つの感覚がある、しかしこの一つの感覚は独立に存在するものではない、必ず他と対立の上において成立するのである、即ち他と比較し区別せられて成立するのである。この比較区別の作用即ち統一的作用が我々のいわゆる精神なる者である。それでこの作用が進むと共に、精神と物体との区別が益々著しくなってくる。子供の時には我々の精神は自然的である、従って主観の作用が微弱である。然るに成長するに従って統一的作用が盛になり、客観的自然より区別せられた自己の心なる者を自覚するようになるのである。
普通には我々の精神なる者は、客観的自然と区別せられたる独立の実在であると考えている。しかし精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象的概念であるように、客観的自然を離れた純主観的精神も抽象的概念である。統一せらるる者があって、統一する作用があるのである。仮に外界における物の作用を感受する精神の本体があるとするも、働く物があって、感ずる心があるのである。働かない精神その者は、働かない物その者の如く不可知的である。 然らば何故に実在の統一作用が特にその内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実在であるかのように現わるるのであるか。そは疑もなく実在における種々の統一の矛盾衝突より起るのである。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一が明あきらかに意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。たとえば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。然らばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在その物の性質より起るのである。かつていったように、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。
我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已すでに得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此かくの如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。
我々の精神とは実在の統一作用であるとして見ると、実在には凡て統一がある、即ち実在には凡て精神があるといわねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを区別するのは何に由るのであるか。厳密にいえば、凡ての実在には精神があるといってよい、前にいったように自然においても統一的自己がある、これが即ち我々の精神と同一なる統一力である。たとえばここに一本の樹という意識現象が現われたとすれば、普通にはこれを客観的実在として自然力に由りて成立する者と考えるのであるが、意識現象の一体系をなせる者と見れば、意識の統一作用によりて成立するのである。しかしいわゆる無心物においては、この統一的自己が未だ直接経験の事実として現実に現われていない。樹其者そのものは自己の統一作用を自覚していない、その統一的自己は他の意識の中にあって樹其者の中にはない、即ち単に外面より統一せられた者で、未だ内面的に統一せる者ではない。この故に未だ独立自全の実在とはいわれぬ。動物ではこれに反し、内面的統一即ち自己なる者が現実に現われている、動物の種々なる現象(たとえばその形態動作)は皆この内面的統一の発表と見ることができる。実在は凡て統一に由って成立するが、精神においてその統一が明瞭なる事実として現われるのである。実在は精神において始めて完全なる実在となるのである、即ち独立自全の実在となるのである。 いわゆる精神なき者にあっては、その統一は外より与えられたので、自己の内面的統一でない。それ故に見る人によりてその統一を変ずることができる。たとえば普通には樹という統一せられたる一実在があると思うているが、化学者の眼から見れば一の有機的化合物であって、元素の集合にすぎない、別に樹という実在は無いともいいうる。しかし動物の精神はかく看みることができぬ、動物の肉体は植物と同じく化合物と看ることもできるであろうが、精神其者は見る人の随意にこれを変ずることはできない、これをいかに解釈するにしても、とにかく事実上動かすべからざる一の統一を現わしているのである。 今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来きたるのであるということができる。精神の発展において始めて実在成立の根本的性質が現われてくるのである。ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。
精神の統一者である我々の自己なる者は元来実在の統一作用である。一派の心理学では我々の自己は観念および感情の結合にすぎない、これらの者を除いて外に自己はないというが、こは単に分析の方面のみより見て統一の方面を忘れているのである。凡て物を分析して考えて見れば、統一作用を認むることはできない、しかしこの故に統一作用を無視することはできぬ。物は統一に由りて成立するのである、観念感情も、これをして具体的実在たらしむるのは統一的自己の力によるのである。この統一力即ち自己は何処より来るかというに、つまり実在統一力の発現であって、即ち永久不変の力である。我々の自己は常に創造的で自由で無限の活動と感ぜらるるのはこの為である。前にいったように、我々が内に省みて何だか自己という一種の感情あるが如くに感ずるのは真の自己でない。此の如き自己は何の活動もできないのである。ただ実在の統一が内に働く時において、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずるのである。而しかしてこの実在の統一作用は無限であるから、我々の自己は無限であって宇宙を包容するかのように感ぜられるのである。
余が曩さきに出立した純粋経験の立場より見れば、ここにいうような実在の統一作用なる者は単に抽象的観念であって、直接経験の事実ではないように思われるかも知れない。しかし我々の直接経験の事実は観念や感情ではなくて意志活動である、この統一作用は直接経験に欠くべからざる要素である。
これまでは精神を自然と対立せしめて考えてきたのであるが、これより精神と自然との関係について少しく考えて見よう。我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかのように考えられているが、その実は統一せられる者を離れて統一作用があるのでなく、客観的自然を離れて主観的精神はないのである。我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明にするというは、自己の主観的臆断をすてて、花其物そのものの本性に一致するの意である。理を考えるという場合にても、理は決して我々の主観的空想ではない、理は万人に共通なるのみならず、また実に客観的実在がこれに由りて成立する原理である。
動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるに由って得らるるのである。 これを要するに我々の知識が深遠となるというは即ち客観的自然に合するの意である。啻ただに知識において然るのみならず、意志においてもその通りである。純主観的では何事も成すことはできない。意志はただ客観的自然に従うに由ってのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従うのである、人を支配するのは人の性に従うのである、自分を支配するのは自分の性に従うのである、我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、基督キリストが千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であった故である。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。 普通には精神現象と物体現象とを内外に由りて区別し、前者は内に後者は外にあると考えている。しかしかくの如き考は、精神が肉体の中にあるという独断より起るので、直接経験より見れば凡て同一の意識現象であって、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的なる主観的精神といって居る者は極めて表面的なる微弱なる精神である、即ち個人的空想である。これに反して大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動その者である。それでかくの如き精神には自ら外界の活動を伴うのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来の如きはその一例である。 最後に人心の苦楽について一言しよう。一言にていえば、我々の精神が完全の状態即ち統一の状態にある時が快楽であって、不完全の状態即ち分裂の状態にある時が苦痛である。右にいった如く精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。この矛盾衝突の場合には常に苦痛である、無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。この時我々の心に種々の欲望を生じ理想を生ずる。而してこの一層大なる統一に達し得たる時即ち我々の欲望または理想を満足し得た時は快楽となるのである。故に快楽の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一面には必ず快楽が伴う、かくして人心は絶対に快楽に達することはできまいが、ただ努めて客観的となり自然と一致する時には無限の幸福を保つことができる。
心理学者は我々の生活を助くる者が快楽であって、これを妨ぐる者が苦痛であるという。生活とは生物の本性の発展であって、即ち自己の統一の維持である、やはり統一を助くる者が快楽で、これを害する者が苦痛であるというのと同一である。
前にいったように精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。