善の研究:第二編 実在:第一章 考究の出立点
善の研究:第二編 実在:第一章 考究の出立点
世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。たとえば高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑を抱くようになる。元来真理は一である。知識においての真理は直ただちに実践上の真理であり、実践上の真理は直に知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明あきらかにせねばならぬ。
哲学と宗教と最も能く一致したのは印度インドの哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラハマン Brahman でブラハマンは吾人の心即アートマン Atman である。このブラハマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。基督キリスト教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑え難く、遂に中世の基督教哲学なる者が発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗すこぶるこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を証明するのである。欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始とし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分れるような傾向ができた。しかしこれは人心本来の要求に合うた者ではない。 今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡すべての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなすように考えている。またこの考が凡ての人の行為の基礎ともなっている。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらも疑えば疑いうる余地があるのである。その外科学というような者も、何か仮定的知識の上に築き上げられた者で、実在の最深なる説明を目的とした者ではない。またこれを目的としている哲学の中にも充分に批判的でなく、在来の仮定を基礎として深く疑わない者が多い。
物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかのように考えられているが、少しく反省して見ると直にそのしからざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、その色その形は眼の感覚である、これに触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所の者は凡て物其者そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物其者を直覚することは到底不可能である。自分の心其者について見ても右の通りである。我々の知る所は知情意の作用であって、心其者でない。我々が同一の自己があって始終働くかのように思うのも、心理学より見れば同一の感覚および感情の連続にすぎない、我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。ただ我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。しかし因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。 さらば疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか。そはただ我々の直覚的経験の事実即ち意識現象についての知識あるのみである。現前の意識現象とこれを意識するということとは直に同一であって、その間に主観と客観とを分つこともできない。事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑うに疑いようがないのである。勿論、意識現象であってもこれを判定するとかこれを想起するとかいう場合では誤に陥ることもある。しかしこの時はもはや直覚ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識現象である、直覚というは後者を前者の判断として見るのではない、ただありのままの事実を知るのである。誤るとか誤らぬとかいうのは無意義である。斯かくの如き直覚的経験が基礎となって、その上に我々の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。
哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかかる直接の知識に還ってくる。近世哲学の始においてベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は考う故に余在り」cogito ergo sum の命題を本として、これと同じく明瞭なるものを真理としたのもこれに由るのである。しかしベーコンの経験といったのは純粋なる経験ではなく、我々はこれに由りて意識外の事実を直覚しうるという独断を伴うた経験であった。デカートが余は考う故に余在りというのは已すでに直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸もろもろの哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる)。
意識上における事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を以て最も確実なる標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用に由って真相を明にすることができるという。勿論この中でも常識または科学のいうのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真となし、他の経験的事実を以て偽となすのである。たとえば日月星辰せいしんは小さく見ゆるがその実は非常に大なるものであるとか、天体は動くように見ゆるがその実は地球が動くのであるというようなことである。しかしかくの如き考は或約束の下に起る経験的事実を以て、他の約束の下に起る経験的事実を推すより起るのである。各おのおのその約束の下では動かすべからざる事実である。同一の直覚的事実であるのに、何故その一が真であって他が偽であるか。此かくの如き考の起るのは、つまり触覚が他の感覚に比して一般的であり且つ実地上最も大切なる感覚であるから、この感覚より来る者を物の真相となすに由るので、少しく考えて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲学者に至ってはこれと違い、経験的事実を以て全く仮相となし、物の本体はただ思惟に由りて知ることができると主張するのである。しかし仮に我々の経験のできない超経験的実在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由って知ることができるか。我々の思惟の作用というのも、やはり意識において起る意識現象の一種であることは何人も拒むことができまい。もし我々の経験的事実が物の本体を知ることができぬとなすならば、同一の現象である思惟も、やはりこれができないはずである。或人は思惟の一般性、必然性を以て真実在を知る標準とすれど、これらの性質もつまり我々が自己の意識上において直覚する一種の感情であって、やはり意識上の事実である。 我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、ただ思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
思惟と直覚とは全く別の作用であるかのように考えられているが、単にこれを意識上の事実として見た時は同一種の作用である。直覚とか経験とかいうのは、個々の事物を他と関係なくその儘ままに知覚する純粋の受動的作用であって、思惟とはこれに反し事物を比較し判断しその関係を定むる能動的作用と考えられているが、実地における意識作用としては全く受動的作用なる者があるのではない。直覚は直に直接の判断である。余が曩さきに仮定なき知識の出立点として直覚といったのはこの意義において用いたのである。
上来直覚といったのは単に感覚とかいう作用のみをいうのではない。
判断はこの分析より起るのである。