未来科学としてのSF
仮説:SFと本物の科学って、機能としてはかなり似てるのでは?
現象の勘所を分かりやすく表現して考えやすくする「モデル」(科学モデル)が科学の考え方で使われている
主語をデカくすると「科学は虚構である」みたいになって大論争になるから、モデルについて議論している
わかりやすい例ではデータを方程式で表したり
「言語モデル」については難しいのでパス…モデルが喋りだしちゃって…
3Dモデルも精細になると現実に近くなる。COVID-19時、外出ができない状況で『龍が如く7』の横浜を歩いていた。後で聖地巡礼的に行ったとき感動した。
科学モデルにはフィクションの側面があるという考え方がある
2023年2月に来日して、京大、東大、北大で講義をして帰っていった 2月の北海道は寒かった。2月の北海道は、寒かった。
異論はある。『科学とモデル』のワイスバーグも反対。でもまあ相当に議論が尽くされており、使える考え方ではないか
別に科学モデル論内部で論争をするほど議論が起こっているわけでもないし、2月の北海道の寒さの方がきつかった
『科学とモデル』におけるフィクション説の説明:「数理モデルを理解する一番よい方法は、それが、数学的なことがらよりも文学的なフィクションに近いもののように捉えることである」
もし科学モデルがフィクションだとしたら:
SFも科学みたいに未来の現象について考える材料になれる
科学がものを作るベースになっている(工学)ように、SFも未来を作るベースになれる
Roman Friggのフィクション説
なぜRoman Friggの説に注目しているか?→自分の学問をFriggの説で説明している先生がいたから
人々の日常生活と、日常生活を論文などで説明することの違いをうまく理解できる(研究中)
未来の日常生活と、SFの関係に似てるっちゃ似てる
あとむちゃくちゃフィクションのこと考えてる
Friggのモデル説の立場を簡潔にはっきりと著した論文。
1章
物理学の教科書にもあるように、科学者は単純なモデルを用いて考える。
仮説的なシステム(点Pとか)を提示し、それがどう現実の一側面(対象システム)を表現しているかを主張する。
モデルに関する2つの疑問
問い(1)モデルとは何で、正しさはどう決めることができて、どう研究すればいいか?
問い(2)モデルが対象を表現するとき、両者の関係は何か?
(1)を扱う。(1)をやってからでないと(2)はわからない。
2章
数学的構造がモデルだという見方もあるが、狭い。想像された物理的システムと捉えたほうがいい。
モデルの定義:時空間に存在しない、想像的なものだが、もし実在したら物理的なものになるもの
この定義のいいこと1:だいたいのモデルは数学的構造ではなく仮定の状況を説明している。
この定義のいいこと2:モデルの構造と世界の構造の関係を証明するのは難しい。
構造的な主張をするために作った仮説的なシステムを「モデルシステム」と呼ぶ。
3章
科学やモデルと、フィクション文学の関係は、昔から主張されてきた。
マクスウェルなども言及していた
Godfrey-Smith: モデルをシャーロック・ホームズのロンドンやトールキンの中つ国のようなものとして扱うのがふさわしい
SFでいう世界観だ!
ガチフィクションで科学モデルを語る前に一旦落ち着こう
モデルに必要な条件
(1)異なる記述のモデルが同一である条件、(2)モデルが性質を持つ条件、(3)モデル同士の比較の条件、(4)真偽の条件、(5)認識論、(6)形而上学
見せかけ理論(4章)がよく合う
モデルシステムとフィクション文学を同じようなものとして考えることが、問いに答える助けになる理由
どちらでも現実に存在しないものを区別できる
どちらにも明示されていないものがある
どちらにも明示されていないものを学ぶ手段がある。科学の場合正しさを検証できる
どちらでも現実の状況を比較し、世界について学べる
4章
見せかけ理論(pretence theory)について
ウォルトンの出発点は、人間が物事を想像する能力である
特定の対象(小道具:prop)によって想像力が喚起されることがある
小道具である条件:それが存在することによって何が想像されるかを規定する規則「生成の原理」
小道具で想像することは、ままごと遊びに参加することであり、それに参加するのが「見せかけ」である
フィクションは読者に想像を促すから小道具。「ごっこ遊びmake-believe」ゲームを生成する
子どもたちが「切り株がクマである」というルールを作って遊ぶとき、アドホックな生成ルールがある。
公認されたものが「表現」である。アドホックなものは公認でないので表現ではない。
(praxeological ruleとconceptual playの元ネタっぽいな)