2024年8月29日
ものがお相手に伝わるか伝わらないかは、ひとによって時間差も、掴む択の正誤も、ものすごくあると思う。正しく己を鑑みること、というのは、ほんとうにむずかしい。人によってはどうにもならない、本当に難しいステップがある。友好者としてあるためには、お互いの踏み込みの距離を、もちろん喋るからには自分も、お相手も、よからぬ踏みをしてしまうことがあり、故の無礼が発生することがある。さまざまな心理感情が発生するとも思う。お相手と自分の位置を、どちらに悪的要素があるとしても、なにがどうだったろうと、再考を図ってゆくしかないのかなと思う(答えを出すということではなく、友好者として関わることのできる距離はなんだろうと)。
近くでものを明瞭にする、言葉にしようとするゆえにむずかしくなっているところもある。手繰り寄せたが見当違いの、なにもない紐であったり、またなにか、よくないものを引っ張ってしまったり。気候が思考に重さを与える外因的側面もあるやもしれない(わたしも多分にある)。かかわりの道を、なにをどうして間違えるのかは、ほんとうにわからない。むずかしい。これは良悪の話ではなくて、朝起きて、すこし運動をして、ごはんをたべて、仕事をして、遊んで、という、そういう生活のリズムというか、呼吸の話という気がしている。呼吸は意識しだすと不安定になり、逆に安定をもたらすこともある。だからだと思う。うまく言葉にできないが。考えるのはむずかしい。