04.15|二日酔い
酒を飲みすぎた。完全にやりすぎた。二日酔いから目覚めたわたしはとりあえず頭痛薬を飲んだし、それでもスッキリしなかったので一日のほとんどを睡眠にした。酒を飲み過ぎるとこうなる。わかっているのにやる。虚無だ。
とはいえ飯は食わねばなので、風呂掃除をして食卓へ向かった。今日は鍋を食べた。鍋を食べたわけではない。鍋の中で炊いたものを食べた、という意味である。そうしてぼんやりと過ごしながら、わたしは世の中を漠然と捉えていることをやはり思ったりする。
なんらかの情報をいれるとき、基本的には自分の中で得られるだけの量にしておきたい、と考える。耐性が無いと言われたらそれまでだし、実際わたしは軟弱者だと思うのだけれど、でないと致死性の毒になるゆえ、こうせざるを得ない側面がある。
一瞬の多幸や全能感や絶望を由来としてその先へ身を委ねるのはあまりよくないと個人的に思うが、それゆえにどこかへ行ける場合もあると思う。だから、どういう形で行動に出るか、なににぶつけようと思うか、次第だろうか。とすると結局は自己の操縦とか制御のお話になるのだろうか。
おまえの抱えるものが現実でたしかに起こって、溜飲を下げたとしても、おまえが救われることはないとは思う。が、それを言葉として突きつけたところでなにかがどうなるわけでもない。であればわたしは何者なのだと。
何者かである必要はないが、努めて何者かであろうとするのを否定する必要はない気がする。なにもわからないが、そうあろうとする所作と心理自体が大事なように感じる。性急なものではなく、己にとっての律として。
ただやはり、発露へ至る事柄があるとして、じゃあどうして発露したのかは慮るべきかもしれないし、突っぱねなければならないものという気もしてくる。何でもかんでもその立場になり、移入すればいい、というものではない、とも思う。むずかしいが。
明確になることがない、というものだと思う。どうあっても立場的な表明になりうるのだから、それを自己認識したうえで、言葉に出すか行動とするかはまた別なのだろうと思う。
思考というのは練られてゆくものだし、ある結論があるからこそ論立てが生じるとも感じるしその逆もあると思う。わたしはそういう意味では、無責任なやつだし、ある方向へ持ってゆきたく無いから自衛的なのだろう。
と、うだうだしたところで、風呂に入るので今日は終わる。自分なりの、物事を弱いなりに受け入れる、その体制を得るために、ぼうっとしているのが常な気がする。基本わたしはテキトーなので、そうでないかもだが。