差異が同一性に先行すること
https://gyazo.com/50714b9d73e5979f96120c26309cb484
『差異と反復』において言われる。
「同じ」とはなにか問題
たとえば「=」
1 = 1 ではなく
これは「不活性な論理学」
(思想2025.6月号「物体、非物体的なもの、出来事」p70)でストア哲学の論理学でパラフレーズされている箇所で、情報量0のトートロジー的な論理学
n + 1 = 1
n - 1 = 1
m + 1 = 1
…
といわれるときのような「=」問題
これらは左辺が違っている(「差異」)にもかかわらず、「同じ」であるとみなされることであり、
ドゥルーズはむしろこれが「同じ」の発生であると看破する
1 = 1
という形は、ペダンティックに問題提起しない限り言われないのであり、
ふつうはn + 1 = 1のような形で「=」が使われることがもっぱらだ
あえていうなら「 n + 1 = 1」 が先にでてきて、そのあとに「1 = 1」的な論理がでてくるのだろう
スターバックス、ドトール、コメダが街にあった
これらは「違う」店だけど「同じ」喫茶店だ、とみなされる
このときにようやく「同じ」が生成される
もし「スターバックス」しかこの世になければ、「同じ」という概念はいらないだろう
「同じ」は外部(=差異)があるからこそ意識される
このことは政治的な同一性(ナショナリズム)の発生にも言われる
「日本が」とか「クールジャパン」とかいってことさらに(同じ)「日本」が強調されるのは(違うものとしての)「アメリカ」があるからであり、「中国」があるからである
たぶんアメリカとか中国、つまり(外部)世界がなければ、べつに「日本」だって存在しない(=意識に上らないということ。物理的には大地はあるだろうね、高層ビルもあるだろう)
学校で友だちグループができるのもそう
話が合わない人がまずさきにたくさんいて、たまたまとある話題で盛り上がれると、「同じ」話題で盛り上がれる「友だち」になる
わたしたち、同じだね、ハハハー
「同じ」が必要なのは「差異」のカオスにさらされるからだ