存在論的残余
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ontological surplus
「存在(論)」がなぜ西洋哲学にとって問題なのか、そしてなぜ難問なのか
たとえば存在/非存在というように分けて考える時、そこには関係性の差異が生ずるだろう
たとえば
シャンパン/スパークリングワイン
という分け方があったとして
シャンパンとスパークリングワインの関係性の差異は、そのひとつ上のカテゴリーである「ワイン」があるので「ワイン」のなかに関係性の差異が含まれる、と考えることができるので破綻しない
だが、存在/非存在の上にはもはや上位のカテゴリーは存在しない
「存在」こそが最上位であり、根源であり、問題なのだ
さて、ではその関係性の差異は「存在」なの?「非存在」なの?
関係性は「存在」してるの?「非存在」してるの?
→もし関係性が「存在」してるなら、じゃあ存在/非存在と分けた時の差異(「/」)も存在に分類されるので、分けれないよね?
逆もしかり
これを解決しようとすると、
存在には外部としての差異をもちえない限り、「存在」の内部に「存在でも非存在でもない差異」を含まなければいけない
「存在の関係の差異は、存在の自己述定となるしかない」
∴「存在」の内部に「存在でないもの」(存在のある種の否定)がふくまれている、あるいは潜在しているともいえる
ある種の自己矛盾が存在論の中に孕まれている
これが存在論的残余と呼ばれる…