哲学のその抽象的なめまいについて思うこと
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ひとつの所感nagasena.icon
哲学の話は、抽象的だから、その抽象的なめまいにやられて惹かれもする(カッコいい)し、あるいはインチキくさくてイヤ気もする
/glisp/エンジニアにとっての人文学
/glisp/テクノロジーそのものの話をしゃんとしたい
それは自分が哲学科をかじっていた学部生のころに実感として両方体感してきた
だからこそ、いまもういちど抽象的な文章、概念的な遊びに思えるような文章(→ソーカル事件、あるいはメディア・アートのコンセプトに思うこと)を揶揄するのではなく、
彼らが切実に何を問題として、なにを見ていたのか、どういう切り口で扱っていたのかを感じ取ることが(インチキにも思えてしまう文章に惑わされず)課題なんではないか、ある種の人文-テックのコンプレックスを開いていくためには
(まあ結果として、何周かまわってイロニカルな遊びに落ち着くのかもしれないけれど)
その意味では、
英米系の分析哲学は(少なくとも自分が触れてきたなかでは)哲学研究のための哲学研究という感じがして、つまり切実さがないようにみえる
言語ゲームてきな。
あまりそういうことには興味がない
切実さのある分析哲学に出会えたらいいな、きっとある
その点では、自分はもう極めてヨーロッパ文化圏(ラテン語圏)の教養の壁に埋め込まれているな、という感じもする
インド哲学とか中国儒教、日本の仏教的な思想 = 瞑想的な実践ありきのものにはあまり興味がひかれていない
4項(Tetra)レンマ(Lemma)は気になる
ヨーロッパ的な、2項(Di)レンマ(Lemma)に対して
それが単に60-80年代ニューエイジ的な方向に走らないようにしたいけど
ドゥルーズとかは「一義性」とか「強度=0(器官なき身体、内在平面)」とか、別の項をみてとってはいた
あれはなんなのか?