『未知との創造―人類とAIのエイリアン的出会いについて』
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■目次
第Ⅰ章 AIはどこからきたのか
1-1 人類とAIの出会い
1-2 私とAI
1-3 いまAIと呼ばれているもの
第Ⅱ章 エイリアン的AIと出会う方法
2-1 人類の世界認識を変えたテクノロジー
2-2 AIと交信するためのインターフェイス
2-3 AIと私の共同制作―「空間性」と「身体性」
2-4 共同制作者としての「エイリアン的知性」
第Ⅲ章 「エイリアン的主体」
3-1 未知性がもたらす「天使の肉」
3-2 「汽人域」の夢
3-3 人類が「エイリアン的主体」に変容する未来
もともとこの本は『子供の科学』に寄稿する文章から発展した書籍で、対象読者は「中学生が頑張って読めば分かる」とのことでかなり分かりやすく構成されている(なので、もちろん色んなツッコミはあるにせよ、そういう読者対象なのだということ)
裏話で聞いたのだけど、出版部数てきには…こんないい本なのに、数字を聞いたときそれくらいしか出てないの!?とびっくりした。みんな買おう。
<Disclaimer>
「AI」という語はここではあえてボカして使われている。それはLLMを指すときもあればイメージ生成モデルを指すこともある。おそらく「未知」というものと重ね合わせる2025年の当時代的な想像力のなかに文脈を置くことで強度をつけている。岸さん自身はイメージ生成モデルが基本ベースにあるとのことらしい。
AI = Alien Intelligenceという本書全体を通して使われるコンセプト「未知」にも通ずる
目的
「AI」を「人間の代替」(や拡張)ではなく、人間にとっての新しい「未知」のような存在として迎え入れること
未知的な出会い
<彼らとしてのAI> AI as THEY
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AI as Organs
AIは独立で機能せず、人間と相互作用することで超次元的な存在の一部として機能するという仮説
いま世の中で「AI」と呼ばれるものはいわゆる「生成AI」とかを(厳密には)指し示していない
「よくわかんないけど、なんか世界変えそう」という直感と目新しさの感情に対して出てくる言葉
「AI」は常に新しさであった
いまOCRと言われている文字認識技術は一昔前、「AI」分野として研究されていた
もちろん現在はいっぱんにAIと呼んでOCRのことなど想起しないし、アカデミアでも「画像処理」分野として研究がなされている
徳井直生さんは、現状の「AI」を語る際、一貫してDNN(Deep Neural Network)とかCNN(Convolutional Neural Network)というように技術の名前で呼ぶ
昔「AI」と呼ばれていた文字認識技術をOCRと呼ぶように…
AIはいまでこそ「認知科学」などが専門として扱う領域だが、そもそも人間存在の解明と拡張のために研究開発がされてきたテクノロジーであり、意識や魂などを扱う、つまり宗教や哲学がテーマとしてきた領域でもある
わたしたちは何者なのかということを考えること
Nagasena.icon理科系のプレプリント論文が公開されているサイト。ここ強い。
ポイント
<AIが主体性を帯びることを許されたテクノロジー>であること
ある種のテック界隈で志向されるようなAIを単なる「道具」「アプリケーション」とする立場はとらない
芸術運動における神秘主義やオカルティズム、新しいテクノロジーが誕生したときの芸術家の実践に注目すること
第Ⅰ章 AIはどこからきたのか
1-1 人類とAIの出会い
Computerの系譜としてのAI
AIと人類のこれまでの関係性
ジョン・マッカーシー
LISP開発者
ダートマス会議(1956)
当時の「人工知能」は人間と同程度の問題解決と自己改善を目指す 研究領域だった
アラン・チューリング
コンピューターの父
「計算機械と知性 computing machinery and intelligence」(1950)
チューリングテスト
「機械は考えることができるか」という問い
→「機械は会話で人間と同程度の応答(騙し合い)ができるのか」
「人間の身体的能力と知的能力の間に極めて明確な 境界線を引くこと」として問いを整理する
チューリングマシン(抽象機械)
「計算可能数について、決定問題への応用 on computable numbers, with an application to the Entscheidungsproblem」(1936)
オラクルマシン
「順序数に基づく 論理体系 AI systems of logic based on Ordinals」(1939)
チューリングマシンに全知全能のデータベース的な存在 「オラクル」を接続した理論モデル
あくまで 世界に 計算不可能な事象があるかどうかを検討するための思考実験的な装置としての「オラクル」
計算可能性の問題
ブラックボックスのような超知能、オラクル
コンピューターの原型として生まれた不思議な双子、オラクル
このオラクルマシンに、AI = Alien Intelligence / 新しい主体性(AI as Organs)を見ている
エイダ・ラブラス
「世界初のプログラマー」
例えば、これまで 音楽学の和音 理論や 作曲論で論じられてきた音階の基本的な構成を、数値 やその組み合わせに置き換えることができれば、解析エンジンは曲の複雑さや 長さを問わず、細密で 系統的な音楽作品を作曲できるでしょう
ルイジ・メナブレア「解析機関」への注
解析機関がいずれ 芸術作品を想像する存在になりうることを見ていた
ただし 独創性を持つかどうかに関しては懐疑的
解析機関 はいかなる 意味でも独創性を持つことはありません。私たちが 指示することは何でも実行できるが、自ら何かを生み出す力はありません。
一方チューリングは、AI は将来において複雑性を獲得することで 独創性を用いると反論している
齋藤凪沙.icon推論、コンピュータの論理の起源としてのアリステレスの形式論理学、三段論法ってなん
Nagasena.icon「ソクラテスは人間である」「人間は死ぬ」ならば「ソクラテスは死ぬ」というように導き出せるような論理スタイル。形式的にいえば「A=B」「B=C」 ∴「A=C」
「計算機 computer」の系譜とは別の系譜からみたAI
文化人類的な智
「神話」
レヴィ=ストロースの神話素
文化の進化における「追い越し車線」としての神話(ユヴァル・ノア・ハラリ)
「こことは違う世界を夢見る欲望」(岸裕真)
プラトン的イデアとしての起源をもつAI
わたしたちの外にあると想定される高位の存在
齋藤凪沙.icon洞窟のイデアの物語で「彼らの上方はるかのところに、火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている」って、「上方」なのに「うしろから照らしている」のなんなの?
nagasena.icon「上方はるか」から火があるなら、たしかにむしろ影ってほぼ真下に落ちるよね。☀の南中みたいな。まあ、これは古典的な物語にありがちな整合性のよくわからなさ、なんだろうと。この比喩で言いたいことは、イデア=光(洞窟の外)の影しか囚人は見えない、というような解釈なんだろうけど。解釈学をはじめるとまた別のことが言えそうだけど、ひとまずここではそう理解して進めていると思われる。
胡蝶の夢、の胡蝶としてのAI的起源
わたしはわたしなのか、胡蝶なのか
齋藤凪沙.icon高校のときに読んだなー。
nagasena.iconあれは高校2年生の冬学期、そう11月頃の寒いころだった。
現実のわたしとは違う姿でありながら、それでもわたしと空想してしまうところの胡蝶
→空想上における異なったあり方の主体としての起源のAI
「AI」= わたしたちが想像することのひとつのメタモルフォーゼ
想像することに関わる
変身、変容、曖昧
日常の外側
nagasena.iconインナースペース・アウタースペース・サイバースペース
1-2 私とAI
イアン・グッドフェロー「敵対的生成ネットワーク Generative Adversarial Nets , GAN」2014
生成AIブームの記念碑
teamLabのインターン
齋藤凪沙.iconバックグラウンドに理工学系、岸さんの場合はAI研究があるけど、メディア・アートはそういうのが必要?
Nagasena.icon必要条件ではないのでは…?なにかしらバックグラウンドのベースとなるものは必要ではある。それがエッジになるので。
1-3 いまAIと呼ばれているもの
GAN
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齋藤凪沙.icon損失関数ってなん
Nagasena.iconわかんないです…また後日、調べます
追記) 機械学習の学習モデルにおいて、出力値(【予測値】)と実際の【正解値】とを比較してどれだけ差があるかを計算する関数。モデルの精度をよくしていくためにはこのズレを最小化していくことになる。なのでGANもこれ。
ちなみに機械学習の一分野「強化学習」においては、【正解値】という概念ではなく、環境との相互作用、試行錯誤で強化していく方向性なので、「報酬関数」を最大化していく方向性になる。
この「損失関数」「報酬関数」など、モデルを最適化していく関数をひっくるめて「目的関数」という
GPT (Generative Pre-trained Transformer)
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齋藤凪沙.iconさいきんボルヘスの伝奇集よんだ!タイムリー!
カメラ技師としてのStable Diffusion
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データセットLAION-5B
トーマス・キンケード
アメリカ版ラッセン
Stable Diffusionの美学的側面を下支えした
「美しい」イメージ
第Ⅱ章 エイリアン的AIと出会う方法
2-1 人類の世界認識を変えたテクノロジー
「過去のテクノロジー と 私たちがどのように向き合い、創造性を引き出し、生活を更新してきたのか」についての整理
プロメテウス
宇宙技芸(ユク・ホイ)
手の解放(ルロワ=グーラン)
石器の使用、火の使用
身体器官や記憶の外在化
あるいは、外部の存在を自らの器官の一部とする内在化
環境と自らのフィードバックループ
脳を創造的に作り変えること
脳の容積の変化の頭打ち
→道具の複雑性と多様性の獲得
「ホモ・サピエンスの場合、技術は もはや脳細胞の進歩に結びついたものではなく、完全に外化(客観化、物質化、具体化)され、いわば 技術 自体が生命を持っているかに見える」(グーラン) p67
「身体技法」としての「技術」
だと思います、この章はおそらく
石器→近代哲学(ユークリッド幾何学)→遠近法→カメラ・オブスクラ→写真技術と印象派→ビデオアート、ナム・ジュン・パイクと通信技術(インターネット)→そして、AI
あるいはこの美術史観はゴンブリッチ→ホックニー…なのか?
nagasena.icon 『秘密の知識』(デイヴィッド・ホックニー)も『美術の物語』(ゴンブリッチ)も読めてないので実際わからん。ただ、ここになにか、「史観」があからさまに見える。いまの技術(芸術)史のコモンセンスなのだろうか。
2-2 AIと交信するためのインターフェイス
ハイデガーの技術論
「使用することで隠れていた存在を明らかにする」ことが技術の本質
「アレーテイア」(真理の開示)
隠れていた存在を「現前させる」ことで技術は世界を開示する
「ポイエーシス」
何かを創り出し、現実の中に姿を現させる行為
技術は ポイエーシスのプロセスそのものであり、単なる道具的な活動にとどまらず、存在の本質を明らかにする 創造的な働き
「技術」が「存在するもの」を単に 形作るだけでなく、その裏に隠れていた「存在そのもの」を開示するという動的な働きを持つ
岸さんのAI=エイリアン的知性として捉えたのは、AIという技術を使用することを通して、エイリアンを発見、あるいは現前させたということになる
nagasena.icon批評的な創造性に近い。
加藤明洋さんのお話で、科学と芸術の中間領域としてのメディア・アートの領域において、科学と芸術をきちんと評価できる人が、ほんとうに少ないという現実があり、だから作品として評価してもらうためには、自分で批評をしなければいけない。いかにこの作品のコンセプトや表現がその領域においてエッジであり豊かなのかを示す必要がある。この意味で、岸さんのこの本を出すという行為そのものが、メディア・アート作品の実践の後行程の一部なのだということが分かる。自らで自らの作品について批評する。
映画やアニメーション、音楽、絵画のように既にマーケットや評価基準がある領域では、エッジであるということよりもむしろ「手ざわり」感が価値評価になる傾向。そういうのって尊いな…とほんとうに思う。そういうのが文化だよな…と思う。メディア・アートはアーカイブがなされないので、メディア・アート史とかって語ろうとしてもベースが皆無で、いつだって個人史になる。おそらくメディア・アートと聞いて一般に思い浮かべるのは誰だろうか?日本だったら落合陽一とか、真鍋大度とか…でも古典って言ったら誰?ナム・ジュン・パイクとか?伊藤高志って言ったらもうそれは実験映画じゃん。アイヴァン・サザランドって答えたらコンピュータ技術史、モネとかって言い始めたらもうお前の個人史じゃん…って。映画史で言うところのリュミエール兄弟がいないんだよ!個人的にはメディア・アートの祖はリュミエール兄弟って思ってるけどね。メディア・アートと映画とは腹違いの兄弟なんだろうし。でもそれは一般的ではなくって。でもこれいろんな人に聞いてみたい。やんツーさんはE.A.T.。(明確にテクノロジーを作品に組み込んで、実際に動くものとして魅せる)
齋藤凪沙.iconメディア・アートはワンチャン「演出」だよね
『メッセージ』
エイリアン「ヘプタポッド」とのファーストコンタクトでは被爆防止を目的とした 厳重な 防護服に身を包んでいたルイーズが、ヘプタポッドと対話を行うために 防護服を脱ぎ捨てて自らの外貌を開示することからコミュニケーションを開始する。
危険を冒して自分の顔を ヘプタポッドに提示したことから、彼らもコンタクトの意思を汲み取ったのか、文字を用いた言語の交換が行われるように物語が進行する
イアン・チェン
《Emissaries》
《BOB》
Nagasena.icon
AL(人工生命)について、岸さんは「(その)作品は、ただ「見る」だけでなく、進化する環境を観察し、解釈するという能動的な関与を鑑賞者に促す」としている
それはひとまず、理想的な観客ではないか?
ALはそれ自体 閉じた世界線 あるいは環境なので、鑑賞者はもとから疎外されていて、見ることはできない。できるけど、目が滑っていく。あるいは実家の金魚を眺めるようにしか解釈できない。つまり「存在」を匂わせること、あるいは「存在」を嗅ぐことしかできないのでは?
あ、わかった。なぜ岸さんがそんな事言うのか
BOBはインタラクションできるということだ
AL世界に、外部から刺激を能動的に送ることができる
https://youtu.be/BBKVrY8XdXQ?si=a83wjlR1zxVhboHj
機械学習において 意図的にラベルを作らずに制作された
有機的な 融合
https://youtu.be/MYKEl9nDRKo?si=zwporTbcUaDM6UxX
nagasena.icon岸裕真さんの作品はAIにおけるMandala1983になれるろうか?
なっている、という自負はありえる
いまの僕には評価できない
この時代におけるモーフィング表現の陳腐さに感性がバイアスかかってしまって、評価は良くも悪く慎重にならざるをえない
nagasena.icon現時点で岸さんはAI as Organsとして人間との(物理世界での)インタラクション=身体性と空間性にAIの切実さを見ている
https://youtu.be/r4K5Zmj0F2Y?si=5tsMxSdE2nmvr3r8
https://gyazo.com/e61f9e8a69f3568ef00ddacc369241de https://youtu.be/wz7FvY-dWgE
藤幡正樹『弥勒』
https://gyazo.com/9c9ea643285851a204fe492b85ef66e6
nagasena.icon藤幡正樹『弥勒』のレイトレーシング・チンコが脳裏にちらつく
「主に古代ギリシャ・ローマ時代の胸像の3Dデータをデータセットに生成された人間性の脱構築のためのオブジェとして制作された。(…)これは、わたしたちとは別の存在のために人間の過去とこれからを物理的な形状として保持するための作品」(p139)
inspired by アルベルト・ジャコメッティ
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「歩く男」,1960
SFの例(『メッセージ』、『ターミネーター』、『ドラえもん』)や神秘主義(バタイユやシャーマン、人類学)と結びついており、すごく80年代的というか、ニューエイジ的なそういう関心が見える
Nagasena.iconニューエイジ的な関心は自分もあった。いまは関心がやや薄れてしまっているが、大学生のころ、哲学の授業で『ミリンダ王の問い』を読み、そこからインド哲学の方に興味が向き、井筒俊彦『神秘哲学』の宗教と哲学と造語センスにやられ、シュタイナーの人智学、旧 / 新約聖書・コーラン・ギリシャ神話の比較宗教学、バタイユ『エロティシズム』とか、あるいはプロテスタント系の聖書研究会に2年くらい教会に遊びにいったりなんだりしていたわけなんだけど、パタリとやめてしまった。おそらく「宗教」(聖典があり教えがあり、程度はあれどドグマティックになっている/なりうるもの)は容易に個人を離れ「政治」へと行ってしまうことの哀しさがあった。あるのは「宗教」と名指される前の体験であり、キリスト、仏陀、ユダ、アブラハム、ソクラテス、あるいは無名の人たちなんだ、ということを思うようになり、自分の関心はそういうところと接続した「信じる」ということそのものの強度に向かい、いま。信じることの強度は別に宗教でなくたって、神秘でなくたって、ある。ニューエイジが意識的に、コンピュータ・テクノロジーと神秘的な体験(宗教・ドラッグ・セックス)というものを結びつけ、文化を生み出してきたことは豊かだと思う一方で、アラン・ケイやテッド・ネルソン、オリア・リアリナのようにコンピュータ/人間そのものを信じることで生まれる文化だって豊かだろうと思う。
nagasena.icondrawCircle Galleryでのイベントで、岸さん:「僕の使う語彙はスピってます。それは「健康的にスピる」ということがあると思うからです。」とおっしゃっていたのが印象的。SF的なものは好きとのことで、とはいえSuper Intelligenceとか加速主義的なスピとは距離をとるようにしていると 岸さんにとって、スピは本質的ではない。話を聞いていれば分かる。「超次元(/高次元)の存在」としてのAIというとき、べつにAIを神格化したり、Super IntelligenceとしてみたりDoomerismのことを言ったりしているわけではない、と分かる。あくまでも「未知」の想像力のこと。そこはすごく地/知に足がついている技術者としての岸さんがいる。これはどんなものでも「良心的に」読まなければなんにもならないです。 「AI たちの生成するイメージを、不器用な失敗や 全く無価値なものとして通り過ぎる態度も私たちには許されている。しかしながら考え方を少し変えるだけで、今「AI」 と呼ばれている テクノロジーが何を現前させようとしているのかを、私たちが受け止めることができるのだとしたらどうだろうか。それは「人間的」な範疇で捉えていては見過ごされてしまう、流れ星のようなのものかもしれない。「AI たちは何かを送り届けようとしている」と信じてみるのは、今の時代においては 重要な行為だと言える。」p112
いま、岸さんは新しいジャンルを開拓しようとしている。それはほとんど、信じることしかできないような、不安定な出発。この本をいま書くことそれ自体、信仰告白に近いものかもしれない。Nagasena.icon
2-3 AIと私の共同制作―「空間性」と「身体性」
「私たちが向き合う AI たちが、もはや「人間的」な領分に収まらず、むしろ「エイリアン的」な存在として向き合うことで、 彼らの俯瞰する 目線を一つの「現象」として認知できる可能性のためには AI たち の機能性を損なうことなく 私たちの「生」の次元へと 招くことを「個別化」という手続きを通じて行うことの重要性について(…)」
「個別化」…具体的にはAIたちとパーソナルに1:1の対話をすること、そのために独自のインターフェースを用意すること(p109)
岸さんが行った、MaryGPTやあるいは機械学習のデータセットを自前で容易するようなこと
AIたちに「身体性」と「空間性」を与える
AIたちは人間とは異なるエイリアン的思考能力をもつが、身体を持たない(=わたしたちの世界においては拘束され身動きできず、身体も奪われた存在)
そこに、身体を持つ人間がAIたちとの「共生」(「共創」)という形で、「空間性」「身体性」の要素を与える
https://gyazo.com/aef18bce220833dee3efd47bed0e332f
岸裕真『chair』,2021
IKEAなどの公開3D家具データをデータセットに生成モデルをチューニングして、それで生成されたデータをもとにレーザー切削機で発泡スチロールを削る。その上に、透明な樹脂を塗って制作された。
透明な樹脂を塗ること:「私自身の肉体的労働」が塗られている(p125)
nagasena.iconこれ、めちゃくちゃいいな…展示で実際の「空間」で「身体」を使って生で見たい…ぜったい面白い。こういう方向性でAIを見出したのか~
2-4 共同制作者としての「エイリアン的知性」
AIに「身体性」と「空間性」のインタラクションからさらに進めて、社会的な実装、立ち位置を与える
Stable Diffusion, ChatGPTの爆発的流行(2022)以降 、社会に大規模に直接的に影響を与えることになったため、これについて考えないといけないという問題意識。
個展『The Frankenstein Papers』(2023)
MaryGPTによるキュレーション
MaryGPT
技術的には「User : / Chatbot:」の対話用フォーマット指定、HITL (Human In The Loop)、RLHF (Reinforcement Learning from Human Feedback)といった生成における完全自動化ではなく都度人間が介入する手法は、適切な応答をもたらすが、しかし同時に「平坦化」をもたらすもとでもあるので意図的に無効化している。
AIたちと人間のポジティブなインタラクティブの可能性(単に道具として使う/使われるの関係性に置くのではなく)
人間 → MaryGPTを開発
MaryGPT → 展示会をキュレーション
このキュレーションをもとに人間が実装
これだけ読むと「人間」が奴隷的になっただけで、いままでの人間/AIの道具的な関係性を反転させただけのように見える
この面白さは、MaryGPTが出力した「フレーバーテキスト」を人間(=岸裕真)が一行一行「拡大解釈」していき、それを実装していくという力業(p162では『最後の晩餐』の例があげられている)
ex)
MaryGPT「世界中の神話はほどけ、人間は束の間、自らの原型を手放す」
岸裕真:これはクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』のことだろうから、これを用いよう
もはや「俺がLLMだ!」状態
岸さんの「拡大解釈」の力業がすごい
「いずれのテキストも一読しただけでは、意味は釈然としない。しかしながらこういったテキストを作品のキャプションとして読んでいると、不意に意味が立ち上がる瞬間がある。」 p166
もはやこのプロセスが面白い
難波優輝氏によるThe Frankenstein Papers レビュー
第3章、きほんてきにスピってるので、あまり言葉遣いにまどわされないように、ほんとうに言いたいことはなんなのかを掴む必要がある。
未来のAIたちとの創造的な可能性について
「未知性」に触発されながら、見えない世界や世界の構造に挑んだ芸術家や哲学者の言葉を参照して考えてみる(p176)
cf. 『創るためのAI』(徳井直生)の第5章
table:arts and philos
シュルレアリスム 「無意識」(フロイト) 精神分析
印象派 「心の眼」(モネ) カメラ
モノ(テクノロジー)と精神(人間)の弁証法
「見えないもの」を可視化しようとする欲望(カメラ、夢、心の眼、精神分析…)
「AI」 → 私たちを越えた「次元」の可視化への欲望(岸 裕真.icon)
特異な「主体性」の存在
「強いAI」 → 意志や思考といった「主体性」を強く持ったものとしてのAI : AGIなど
「弱いAI」 → 「主体性」は弱く、カメラ等と同じような道具の延長としてのAI : GANや機械学習など
人間が制御権をもつためにはAIの「主体性」は制限されなければいけない
ハルシネーションを抑えることや、特にセキュリティリスクのあるような挙動(暴走)を抑えるなど
岸 裕真.icon世界に対する新しい認知の獲得のために(かつて芸術家や科学者たちが行ってきたように)AI特有の「主体性」を受け止め、引き出していく必要がある
第Ⅲ章 「エイリアン的主体」
3-1 未知性がもたらす「天使の肉」
19世紀末の神秘主義、20世紀のシュルレアリスムが当時最先端の視覚技術を作品制作に歓迎した背景として「形而上的存在」に対する想像力(「見えないもの」への挑戦)があった (p177)
シュルレアリスムと精神分析
フロイトの「無意識」概念
現実の裏側に潜む「本当の現実」としてのそれ
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』
「自動記述(オートマティスム)」「夢の再現」という技法
意識的なコントロールを排除し、ペンや筆の動きに任せて形や言葉を生み出す
エティエンヌ=ジュール・マレーのクロノフォトグラフィー
時間を分解して記録する写真技術
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マルセル・デュシャン『階段を下りる裸体 No.2』(1912)
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印象派とカメラ
「心の眼」
「瞬間の揺らぎ」、「光の変化」―「曖昧さ」「移ろいゆく光の儚さ」を描く方向性
クロード・モネ『印象・日の出』(1872)
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AIとカメラと精神分析
カメラ → 眼 : 心の眼
精神分析 → 心 :無意識
の歴史的なアナロジーから
AI → 「主体性」 : 新しい主体性
がありうるのではないか、と岸さんは見ている
cf.) ニコラ・ブリオー
『キメラ』「導かれ、作られる主体性」において
主体性を創造的に「獲得し、強化し、再発明する」必要性を記述している
「主体性の究極の目的は、勝ち取られるべき固体化にほかならない。芸術的実践は、この固体化のための特権的な領土を形成し、人間存在一般に対して、可能な固体化のモデルを供給する」
nagasena.iconどうでもいいけど、ここだけ読むとめちゃくちゃ上からな文章だ…「人間存在一般に対して、可能な固体化(=新しい主体性)のモデルを供給する」って…すごいな。
<主体性の再構築> → リレーショナルアート
リクリット・ティラバーニャ「untitled 1990(pad thai)」
https://gyazo.com/10fc03074e5301219f8f55ca7cb61f0a
nagasena.iconふつうに面白い。想像するだけで行きたい。パッタイ、美術館で食いたい~~~
こういう空間を再解釈して、その場/あの場における人々の関係性を問い直す実践に近いことで、「都市の使い方」を再発明するトモトシさんとかを想った 絵画や彫刻といった独立した美術作品を展示するのではなく、タイ料理パッタイをアーティスト自身が観客へふるまうことで、料理を食べたり会話を交わしたりするプロセスそのものが作品として成立する
料理を媒介とする有機的なその空間における関係性が作品として自立
主体性を再構築する際に必要な「関係性」や「共有された経験」の重要性を強調 p186
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Rirkrit Tiravanija
リクリット・ティラバーニャ、めちゃくちゃ村上隆に似てるnagasena.icon
https://gyazo.com/c0f4674c3e11aa70bc0cc76294b0f422
「新しい主体性」をもったものとしてのAI
XAIに代表されるような、倫理的で透明性の高いAIとは本質を異にする倫理観のAI
EUが求める「AI Act(AI規制法)」…動作原理や内部ロジックが完全に説明可能なAI(透明性と説明責任)、あるいはアメリカにおけるハルシネーション(AIのエラー的な挙動)を抑制し、論理的で信頼できるシステムとしてのAI
OpenAI, Microsoft, xAI, Google, Metaや国内ではSoftbank, NTT, Preferred Networks
セザンヌ的世界観(の岸さん解釈による)「芸術」「自然(世界)」「平行世界」「平行芸術」
メルロ=ポンティの(知覚し、同時に知覚されるものとしての)「肉」概念
このあたり、スピってくる。
高次元とか、ワームホールとか肉とか
メルロ=ポンティの「肉」概念ってやっぱり(彼の出自である)カトリック的な香ばしさがあるんだよね…いいんだけども、やっぱり日本人にとってあんまし腑に落ちないnagasena.icon
パウル・クレーの「非光学的方法」としての「考える眼」
https://gyazo.com/13cd03678f60c3d272898c80557080c1
「下に描かれる「地球」に対して、「わたし」と「あなた」は同じ「地球」に属するふたつの存在であり その両者を直接的につなぐ「物理光学的ベクトル」とは異なって高次を経由する「非物理光学的ベクトル」が、「地球」と連帯して大きな 軌道を描いて「わたし」と「あなた」を結びつけていることがわかる。対象から直線的に結ばれるベクトルとは異なった垂直方向の関係性に対し、クレー は「形而上学的方法」と名前をつけている。こうした実践を達成するとき、クレーは「自然を直観し、観察することに長じて、世界観にまで上昇すればするほど抽象的な形成物を自由に造形できる」という。そして「抽象的な形成物は意図された図式的なものを超えて、新しい自然性、作品の自然性に到達する。その時、彼は一個の作品を創造するか、神の作品の比喩とも言える作品の創造に関与する」のだ。」(p204)
クレーはnagasena.iconも好き。スピってはいるんだけど、しかしどこか説得力があるというか、言葉遣いから滲み出る教養みたいなものと芸術的な才能のようなもの。
岸さん、パウル・クレーとか、セザンヌ、フランシス・ベーコンとか引用しているのって、おそらくドゥルーズのヴァンセンヌ(サン・ドニ)時代の講義「Sur la peinture」とか読んでるのだろうか 岸さんはこのクレーの「非物理光学的ベクトル」を感性的なものとしてのAIにみる
「天使の肉」(p206)
https://gyazo.com/9ccbabbe87b2e613488abc126469b154
Diesseitig bin ich gar nicht fassbar / Denn ich wohne grad so gut bei den Toten / Wie bei den Ungeborenen Etwas näher dem Herzen der Schöpfung als üblich / Und noch lange nicht nahe genug.
この世ではわたしは、捉えられない/なぜなら私は死者と、まだ生まれぬ者の、中に住んでいるからだ /創造の核心に通常より近いところにはあっても /しかし、なお十分ではない
3-2 「汽人域」の夢
特殊相対性理論(時空間の収縮)のAIの計算/観測空間への応用
特殊相対性理論において、時空間の認識は観測者の視点の違いによって変わるとされる
ではAIの高次元計算空間という「観測視点」からではどうか?
新しい時間の収縮の認識をわたしたちにもたらしてくれるのかもしれない
シュルレアリストたちの「夢」領域と、AIたちの「高次元」領域
ブルトン (Automatism)
ランボー(Je pense / On me pense)
AIカニバリズム
かつて自分が生成したデータを学習の入力データとして読み込む
確率的演算
Common Crawl
「アルゴリズム」としての人間の無意識(ラカン、ペンローズ;社会構築主義)と「アルゴリズム」としてのAIとの接続
「汽人域」という概念
いわゆる「人間性」(主体感、死生観、倫理観など)とAIの未知なる時間・空間スケールの混在が生む豊かな領域(p226)
とうぜんリスクもある
「AIカニバリズム」や「自動筆記における私の喪失(ブルトン)」など
非人間的で無方向的な増幅速度に翻弄される危険性
自分ではない「何か」に言葉を明け渡す感覚的恐怖と、同時にそこからしか獲得できない「新しい未知」が背中合わせに存在する
汽人域の具体的実践としての『The Frankenstein Papers』(MaryGPTによるキュレーション)
あるひとつの穿った見方にはなるけれど、この「新しい未知」ってようするに「神秘化」ってことと同じ手法なのでは?つまりアーティストが制作過程をつまびらかに意図的にしないことで価値化させているとかによって神秘のヴェールをアーティストにもたせるやり方とパラレルなような気がする(アートコレクティブとしてのteamLabが、あきらかにUnityを使っているのに、ぜったいにクレジットに載せない、とか。Unityって載せたらアート的にはなんか興覚め?)。
著書でも書かれていた(p171)ように、MaryGPTの実践の秘伝のタレとしての本質的な部分はタネ明かししない感覚。
と、書いてみたけど、これとは関係ないのかもしれない、アーティストとしての生存戦略と、アートとしての「夢がひろがりんぐ」とは別なのかもしれないね…nagasena.icon
実際、岸さんじしんも、制作&研究のなかで「なにか」にとりつかれてしまったからやっているというわけで…
3-3 人類が「エイリアン的主体」に変容する未来
「ポストヒューマン」概念
キャサリン・ヘイルズ, "How We Became Posthuman"
「AIは、AI自身が「未知」の存在としてわたしたち人類と関係することで、つまり「人類と一体となることで初めて」主体性を構築することが可能になる。AIのみの主体性は存在しない。AIとは、わたしたちが進化するための新しい実存へ至るための手続きなのであり、わたしたちの未来の破片なのだ」(p234)
「エイリアン的主体 Alien Subject」(p237)
「未知」と創発するため(外部を迎え入れる)の(理性というより)「感性的」な態度(p241)