高校の旧友と会って自意識についての話をしていたときの補遺
2024-11-14
高校の旧友と会って
自意識についての話をしていたときの補遺
中高生の頃
「世界で一番不幸な僕」
https://gyazo.com/553eadef3b600d2a69201a5ee09a67aa
というパセティックな感傷を抱え持つものだが
それは大人になるにつれてだんだんと(おそらく庶務などの忙殺による)<諦観>によって忘れ去られ、あるいは保留される
時にはいわゆる20世紀的イデオロギー(=自己克服、自己実現)をまとった「成長」という言葉にすり替えられもする
だけど僕たちはその意味での成長などしていないし、おそらく20世紀の張本人たちもそれを分かっていた
親がナゼナゼ期の子どもをあしらうようにして、めんどくさい自己をあしらう
なぜならもしそれに正対するとき、グロテスクな現実(※現実界 le Réel )が眼前にあらわれ
https://gyazo.com/b539034fc5d1e51d8d8b791233da64ce
時に<僕>は自殺をしてしまうだろう
code:巌頭之感
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
それはなぜか
僕は「世界で一番不幸」ではない
ことが分かってしまうからだ
「世界で一番不幸でなくなった僕」は、しかし一方でアクチュアルな「世界で一番の」悲しみを切実に持ち合わせている
この認識の不和が、自意識を狂わせる
それは人を忙殺へと向かわせ、あるいはそれでも世界で一番不幸(悲劇のヒロイン)になろうとする
僕が大学生の頃にも、それはやってきた
しかし僕は真面目にも(?)
それに正対し、
「世界で一番不幸でなくなった僕」
でありつづけた
それは大学三年生の自分をかつてないほどのおそろしい憂鬱へと引き込んだ
いつから<大人になる>だろうか、あるいは<父親になる>だろうか
もしその<大人の起源>が特定可能ならば(たとえ「起源」なるものがフィクションだとしても)
それは書類を書かねばならぬ瞬間、
https://gyazo.com/2a0627df306f01cbda030c5c2143a929
つまり<年末調整>と<出生届>だろう
しかしより正確にいえば、むしろ(義務人としての)<大人>が発生するというよりも
どちらかといえば(遡及的に)<子ども>が発生していたことを発見する
僕が<子ども>であったのは、両親が<出生届>を出さざるをえなかった
という無味乾燥な事実に基づいている
周知のとおり<子ども>は近代の発明であり、具体的にはルソー(『エミール』)による発明であり
https://gyazo.com/ffb38a86ba36bd4b74814bd3eea78745
近代の賜物としての<書類>=官僚による管理を支えるメディアによって生み出された(と僕は見ている)
端的に言って、無味乾燥な書類は人を疲弊させる
人は労働することによって疲弊するのではなく、書類によって疲弊し、大人になる
もしそこから逃れる可能性があるとすれば
https://gyazo.com/cdc07fa7483c40e8f1dadead7de8b96a
<出生届>は僕を事務的に誕生させた
そして僕はいま、<年末調整>という「出生届」を出さなければいけない
(別に年末調整くらい大した手間じゃない、確定申告もちょっとダルいくらいだ、でもなんで書類なんて書かなきゃならんのだと思うのは、まだ僕が大人になれていないからだろうか)
そういう始末の年末を迎えようとしている
この近代的な街のど真ん中で
ほんとうにこのフィクションに付き合わなければいけないのだろうか?