第七章 インターネットアート
ウィリアム・モリス
「人が戦をして負ける。だが敗北しても、彼らが何のために戦ったのかは残る。それは結局、彼らが目指していたものとは異なってしまうのだが、今度は他の者たちが、彼らが目指していたものを、それとは異なる 建前のもとに戦いとらなくてはならなくなるのだ」 p388
(プロトコルの)未来は、もろもろの成功と失策の双方を介して、まさに成功でもある失策と失策でもある 成功 を介して到来するであろうものだ。 p347
私が示唆したいのは、デリダの求めていた「新しいアート」は実のところはビデオではなく、デジタルコンピューターの到来とともに過去数十年のうちに登場した新しいメディアアートであるということである。 p350
なぜデリダは、ビデオに「新しいアート」を見てしまったのか。
それが単なる時代的制約であるならば、ここで デジタルコンピューターを「新しいアート」と言うことには、批評のための批評ということ以外にどのような意味があるのだろうか
批評としてはかなり面白いけど。
デリダの名を借りるなら、デリダの眼の質でもって、あるいは デリダの鋭さの質でもって、思考しなければ、そこには何の建設的な批評的な新しさはないだろう
ギャロウェイがどういう意味で、あるいは どういう眼でこういうことを語るのかを掘り下げる必要がある
表層的にこの文章を受け取ってはいけない
文章から「眼」を獲得しなければいけない
こういうことを僕が言うのは、別にデリダを語りたいとか、ギャロウェイを語りたいとかという「消費コンテンツでイキる」ということから僕自身距離をおきたいから
批評の文章に、かっこいいアジテーションに耽溺してしまうことを避けたい
人文はかっこいいから
人文しぐさから距離をとる
気になるのは「実のところ」という副詞から展開される文構造そのもの
ここに何か「新しいこと」を言うぞ、という意図がダダ漏れしている
こういう場合はよくよく注意しないといけない、誰であれ。
当たり前だが、使っちゃいけないということではない。
当たり前に注意しよう。ということ
「新しさ」は、客観的に発見されるものではなくて、主観的に目覚めるもの
とすれば
「"新しいアート"というものは、(…)それが認識されていないという事実によって認識されているのかもしれない」(デリダ)
ということそのものだ
否定神学の香ばしさがあるが。
制作において「本人が面白ければいい」
制作において「本人」は「常に用心深く」「予測不可能」に面白さを目指す
これさえ守れていれば、新しい。
ニュアンスの世界。
訴求力は実際あまりないかもしれない。
だが訴求力と新しさは、質的にはなんら関係ない
用心深くさえいれば。
要するに、文構造のレトリックによって提出される「新しさ」にはあまり興味がない
「新しさ」は身体的なもの、経験され(う)るものにおいて、僕は興味がある
額縁の新しさではなくて、呪術的な新しさ
つまり空間化された「新しさ」にはあまり興味がない
表現の「領域」には、ニッチゆえに未踏破のところがあり、そこを探っていくのだ、という空間化。
制作者を実際にエンパワーするマニフェストとしては重要だ
僕もそれにエンパワーされている
だけどそれはある種の方便であることは分かる
逆に「表現が出尽くした」とも思ってない
表現は、手法や道具、身体、その無数の組み合わせがある限りは無際限に出てくる
そこは安心している
僕にとって「新しさ」の第一義は、業界内のポジション取りとかとは関係なく、「具体的に経験される喜び」にある。
で、第二義に、ポジション取り。
まあ、パンは食べたいし。
社会に公表されるものは、額縁である限り、かなしいかな第二義的なものであることは避けられない
ある種の「心眼」によって他者の額縁から第一義的な「新しさ」 を読み取ることはわずかにできる
額縁からでてくるニュアンスのトレースによって
一時期、「僕は、僕の目で見たものだけしか経験できないのはあまりに寂しい」と思い悩んでいた
あなたが今見ていること、彼が今聞いていること、彼女が今触れていること、そのものをそのままに僕も経験できないというのは、寂しい。
「新しいメディアアート」 p350
ニューメディアの技術を用いるもの
インターネット アート,CD-ROM, 特定の類のインスタレーションアート, デジタルビデオ, 電子ゲーム, ネットラジオなど
インターネット アート
ワールドワイドウェブ, 電子メール, テルネット, プロトコルの論理に則ったテクノロジー, グローバルなインターネットのうちでなされる あらゆるタイプのアートの実践のこと
単に ブラウザや HTML を使うことではなく, むしろ 文化生産に関わる従来の, 時に不十分であった 諸形式に対して, 対立的な立ち位置を取ることで定義される美学=感性論 p351
「ネット.アート 」net.art
インターネットアートのうちの下位ジャンルの1つとしての「ローテクの美学=感性論」
「7-11」(電子メール リスト)
ジョディ(Jodi)
「ネット.アート」という名前の由来
壊れて 読解不能な電子メールのメッセージから連続する2つの言葉を拾い上げることで偶然に作られたものであった
{⋯-}J8~g#|/;Net.Art{-< s1{⋯}
『ZKP4』
「ネットタイム」の電子メールコミュニティがリュブリャナで刊行した刊行物
インターネット アートがアートの実践として見なされるために
メディウム スペシフィシティ(固有性)が問題になった
過去との決然たる断絶を通して初めて、1つのメディウムは自らの固有性を得るようになる p351
初期映画 (vs 演劇)
ビデオアート (vs TV)