You Say You Want a Revolution? Hypertext and the Laws of Media
Introduction
ハイパーテキストとは、情報を相互にリンクさせ、非線形な形でアクセスできる仕組みのことである。テキスト内のリンクをクリックすることで、関連情報へ自由に移動でき、読者は自分の興味に応じた閲覧が可能になる。この概念は1960年代にテッド・ネルソンが提唱し、理想的な情報ネットワーク「ザナドゥ」を構想した。しかし、実際にはWebという形で発展し、現在のインターネットに広く利用されるようになった。
当初、ハイパーテキストは書籍ではなく、テレビに代わる参加型メディアとして期待されていた。しかし現実には、Yahoo!やCNNなどの大企業サイトによる一方向的な情報提供が主流となり、自由で開かれた情報交換の理想は実現しなかった。さらに、マクルーハンの「メディアの逆転」理論によれば、参加型メディアが発展すると、均質化され支配的なメディアへと変化するという。今日のWebの限界は、インスタントメッセージやオンラインゲームなど、異なる形での情報交換の拡大に表れている。結果として、ハイパーテキストは革命的なメディアにはならず、既存の放送構造に戻ってしまったと批判している。
本文
ハイパーテキストは、ユーザーが情報に自由にアクセスできる非線形な電子文書の技術であり、その概念は1945年にヴァネヴァー・ブッシュが提唱した「メメックス」にさかのぼる。
テオドール・ホルム・ネルソンは「ハイパーテキスト」という言葉を生み出し、情報のリンクと検索による世界的ネットワーク「ザナドゥ」を提唱した。しかし、ハイパーテキストが持つ「情報を操作・編集できる動的なシステム」という特徴は、読み取り専用システムに置き換えられ、実現には至らなかった。ネルソンはハイパーテキストが社会変革をもたらす力を持つと考えていたが、パーソナルコンピュータの普及と共にようやく関心を集め始めた。
ポストモダン社会では「次のもの」を追い求める傾向が強く、技術も常に陳腐化する運命にある。ハイパーテキストも、その時代には受け入れられず、「時代を先取りしすぎた発想」として後に再評価される可能性がある。
ハイパーテキストは、言語のあり方や政治にも影響を与える可能性がある。一時的な流行として終わったと決めつけるのは危険で、その歴史から見ると、ハイパーテキストは抑圧から抜け出し、何度も戻ってくる「革命」とも言える。
ネルソンの「ザナドゥ」は、文化を刷新し、すべての文章をつなげることでアイデアの交流を促す世界を目指している。ここでは、作品は実体ではなく参照として機能し、つながりが重視される。ネルソンは、少数者の深い理解を多くの人々と共有できる新しいポピュリズムを構想している。
「ポピュリティズム」は、全員がデータに平等にアクセスできる社会を指す。この理想社会では、言説が資本に変換されるユートピアが描かれている。このユートピアには二つの問題が潜む。一つは、社会や情報の秩序が少数の人に集中する危険性、もう一つはその少数者が孤立状態に気づかない可能性だ。
ネルソンは「ザナドゥ」を経済的に持続可能な事業にすることを重視している。
マクルーハンの「メディアの法則」は、どの発明にも適用できる4つの問いを提示する。
1.何を強化または増幅するか?
2.何を時代遅れにし、置き換えるか?
3.何を復活させるか?
4.極限まで進めると何になるか?
1.何を強化または増幅するか?
ハイパーテキストは、接続やリンク、関連性が本質である。このシステムでは、ユーザーは受動的に情報を受け取るのではなく、リンクを探索し構築する。ハイパーテキストは読者の「著者の意図」への関心を強め、選択肢が多く見えても事前に定義された制約があることで、著者の存在を感じさせる。リンクを構築し探索する中で、ユーザーはネットワーク内の権力関係を意識し、それを問い直す力を得ると考えられている。
2.何を時代遅れにし、置き換えるか?
ハイパーテキストは、テレビに依存する現代文化への解決策として提示され、印刷文化を紙を使わない動的な形で復活させる可能性がある。ネルソンの予測では、これは識字文化の終わりではなく、ポスト識字社会の到来を意味する。ハイパーテキストによって文学が再生し、テレビ主導の共通文化を超える新たな文化が生まれると期待されている。 ハイパーテキストだけでなく、ネルソンが提唱した「ハイパーメディア」という新しい可能性がある。ハイパーメディアは、音声、音楽、アニメーション、ビデオなどを文字と組み合わせたインタラクティブなマルチメディア形式を含む。ハイパーテキストは形式や文化の枠を超えて関係性を広げ、エリート文化と大衆文化の融合さえも促す可能性を持っている。
ハイパーテキストには、印刷による識字文化を復活させる力があるが、それはネルソンが想定した形とは異なる。そして、ここでマクルーハンの三つ目の問いが重要になる。
3.何を復活させるか?
ザナドゥは、多くの人々に印刷による識字文化の力を再認識させる可能性がある。ハイパーテキストの識字能力は、伝統的な文学の領域だけでなく、インタラクティブな「書く空間」にも広がる。この「書く空間」は、サイバースペースの本質を表現する可能性を持ち、従来の印刷や電子文書とは異なる新しい形のリテラシーを意味する。
ハイパーテキストは伝統的な印刷の限界を突破し、双方向的で動的な情報の流れを可能にする点にその本質がある。ハイパーテキストのリテラシーには、単なる内容理解だけでなく、その構造(ハイポテキスト)の理解も含まれる。
フレドリック・ジェイムソンの「認知マッピング」の考えに基づき、ユーザーは複雑な権力の仕組みを把握し、情報を操作する力を身につける必要がある。自分の立ち位置を明確にする教育が不可欠とされ、ハイパーテキストはその第一歩を提供する可能性を持つ。 4.極限まで進めると何になるか?
ハイパーテキストやハイパーメディアも、当初の双方向性を持ちながら、最終的には制度化され、保守的になる可能性が指摘されている。メディアの反転が単純な元の状態への回帰ではなく、新しい文化的空間への再帰となる可能性を論じている。ハイパーテキストのような複雑で参加型のメディアは、同じ状態に戻るのではなく、全く新しい文化的な可能性を生む「再帰的な変化」をもたらす可能性がある。
ネルソンのザナドゥ構想は、テキスト制作の支配を編集者や出版社から一般の文化的創作者に移すことで、社会的・政治的な革命の可能性を持っている。このシステムは、既存の経済的・社会的なゲートキーピング機能をなくし、多様な人々に創作のコントロールをもたらすことを目指している。 「革命」という言葉は軽率に使われすぎており、現実に目を向けるべきだ。
私たちは新しい技術により発生する変化に直接的に現状に対抗できなくても、変化を弱めることは可能だ。革命というのは進化ではなく保守的な方向へ進む可能性もある。どの意識が変えられる側で、どの意識が変える側なのかが問われている。