「新しい分け方の基準」鈴木成紀
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「料理の形式」「スープと味噌汁で分ける」
https://gyazo.com/12ae3217da389e11f2619ca1bc4a22d8
「具材」「具材としてワカメが使われているものと使われていないもの』
つくった感想
分類という思考を自覚するのが、思ってもみない壁だった。
意識的に分類行為を自覚しようとすると、そういう意識に思い当たらなかった。
あれー、日常生活で何気なく分類してるんだろうけど、どんなことだっけというような自覚が発生した。
分類が分からないけど、何が分からないのかが分からないというような感覚で身動きが取れなかった。
こんなに分類が見つからないのはなぜだろうかという気持ち。
凝り固まった頭を自分なりにほぐすとき、「これって、分類しているんだな」という理解を得るところまで進めることにした。写真の表現にした時に特徴的な分類の視点が現れているというところまでは、あまり頭をひねれなかった。
「表現のための分類探し」と「日常生活の中で行なっている分類の自覚」との間で悩んでいたのかもしれない。表現に繋げるための自覚を探りたいとは思いつつ、なんか大変だった。
すごい個人的に考えていたこと
分類の集合を見つけるのが難しいのかな。
結構難しかったので、家の中に発生する分類とはなんだろうというところは気になった。
分類という考え方を普段の生活の中ですることがあるかとか、家族に尋ねたりした。「ずっとやってきたじゃん、仲間同士で集めるんだよ」と言われた。あれもこれも分類されているじゃんというように言われたけど、ピンとこなかったのはなぜだろう。タオルとか洋服とか靴とか食器とか野菜とか保存食とかその他色々、収納場所とか、家族ごとに分けられているものとか、集合として分類が見えてくるという実感が得られなかったのかな。あの場所とこの場所に置くことで分類していたりする。
日常生活で機能するようになることを考えると、置く場所で分類しているということがあるかも。定位置とかいう言葉もあるし、結構日常生活の導線の中で、君はこの場所でこういう役割を果たしてくれというようなイメージで、意識的に場所に対してそれぞれのものが役割を分担したりしているものに思い至るかも。タオル類の使い分けとか、ハサミやメモ帳とかが空間での用途別に色々な場所に置かれているものとか。そんなことを考えていると、あの場所にあるこれと、この場所にあるこれとは、それぞれ適材適所なんだけど、どうやったら異なる空間に広がった分類を写真の表現に繋げられるのかについて考えてみたりもした。写真表現に繋げようとすると、表現にそぐわないと思われるような視覚的に特徴的ではない性質は扱はなくなる、もしくは発見を自覚されなくなるということがあるかも。一見わかりにくい特徴を視覚的に伝達するところが工夫のしどころだったのだろうとは理解しつつも。