ポエムの定義
わたしたちにはときどき、自信に滿ちてものごとをしゃべってみたくなるときがある。馬鹿げたことだが、その場を離れてから急に恥ずかしくなる。いろいろおもった筈のことが、あれもこれも謂ひ損ねて、ひとりで補足しやうとしてみるのだが、もう熱が冷めてしまってうまくいかない。あのときにあったイメージは空虛で、論理的な構成物に成り果ててしまふ。言葉の定義のことがわたしたちの腦裏にやってくるのはそんなときだ。よく考へれば言葉と現實が對應する關係などまったくわからない。言葉といふものをそれをイメージするわたしたちを透かし通して、直接に現實對象との函數をとらうとするから、わからないなどと謂はなければならなくなってゐるのは明らかだ。だがここではまだ逆說から逃れられない。現實と現實のあいだでイメージが通り抜ける精神の函數を、わたしたちはまだ科學的にあまりに知らな過ぎる。わたしたちの個體は薄くすくない常識らしきものに浸ってゐるだけで、それを超えた普遍性の範圍までなにかを述べやうとするには、言葉が現にもってゐるイメージを踏み外してしまふ。現實は言葉によらず大きな體系で動いてゐるやうに見える。あちらで話されてゐる論理はすべて僞りと護摩化しに聞こえる。言葉の定義を求めるとき、わたしたちはなにもただひとつの實體をもとめることまではしない。多分それは先驗的な正しさ、わたしたちを放棄して無のトートロジーにすべて (の任意さを任意に) 對應づけやうとする、過ぎた要求である。それよりも、手元を離れてトートロジーに託されてしまってゐる言葉に、イメージがその論理に轉化する場所を見附けて定義と呼ぶことになる。
ポエムの定義を考へるのに、わたしたちはどこから出發できるだらうか。これはポエムですよ、と聞かされてわたしたちがはじめに受け取るのは、これはなにかを主張する文章だが、學術的に發展した「根據」といふ槪念の手續きを行ってはゐない、そして「根據」の無さの不安と驕りを詩といふ文學のジャンルに託した、言い訣めいたイメージだ。このはじめの段階では謙遜も驕りもおなじものだ。そこでポエムとは、みずからに過ぎた主張を、現在にもまだ通用する非專門的な文學のイメージに託して書かれた文章だといふイメージが殘る。それから詩ではなくポエムと呼ぶ、前專門性のイメージがある。わたしたちが受け取るもうひとつのイメージは、論理の及ばせ方を知らない領域にある感情から、論理の發達を待たずに肯定的な世界を集約し作りあげようとするものだ。信を實務的に行使するバランスのよさと、存在するかだうかもわからない痩せ細った專門家を待つだけの弱き者ではないといふことが美德となる。貧弱な論理と過大な感情が、こちらで殘される理想的なイメージになる。
わたしたちは、はじめのイメージを外からの貧し過ぎる像とし、ふたつめを內からの理想化し過ぎた像として、ふたつの線の交わるところにポエムの定義を想定する。
だがここから平行線のやうにずれた「ポエム」のイメージを想定しておかねばならない。わたしたちの認識は現實からの計算像としてある。物質からの放射は神經の入力に分解されて、未知の計算を多重に經て精神へやってくる。この計算群をスクリーニングしフィードバックする過程のどこかに意識がある。意識のこの像をとりあへず有用だとみなしてみる。わたしたちの關心は、論理や感情に現實的な基礎を想定できるだらうかといふことだ。言葉の表現內容 (イメージ) に、表現行爲からいちおうは獨立した現實との對應を考へられないのか。言葉によって喚起されるイメージを、現實のなかに對應する「方法」はないだらうか。この論理的な方法を、わたしたちは直感としておぼろげにもってゐる。この直感のつくる距離が、非專門的な表現文と、論理的な形式を模した「ポエム」との平行な差異だ。或る領域でこの平行線がみえないのなら、わたしたちはただ、その領域にかんしてわからないと表明するべきなのだ。
各記事に就いて
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わたしが書いたもの。長くてしかめつらしいのだが、「ようわからん」と一言で要約できるのでポエム度は高いと思ってゐる。
12/24
この記事だ。非專門性といふ意味でかなり正確にポエムだとおもふ。