デリダ追悼
(※明らかに電子化が途中です)
端書き
旧フランス領アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人、子供の頃の名前をJackie Derrida、その後Jacques Derridaに改名(Jackeiでは著述家として評価されにくい為)、更にユダヤ名をElieと言う。脱構築の哲学者――ざっと言ってこれがデリダのプロフィールだ。
デリダは私が二番目に好きな著述家である。にもかかわらず私はデリダの著作を『声と現象』と『死を与える』の二冊しか読んではいない。(因みに一番は吉本隆明だ。)読まないうちから、これは、と思っていたのだ。“脱構築――解体”と云う言葉が当時から“向こう”に関心のあった私を引きつけたからだ。だが脱構築の秘機が破壊ではなくて他者――厳密だと解ったのはずっと後になってからだった。
この文章はここ暫く、確実性・視座・生命・心に就いて論じていた私が、改めて永遠極限の原理論を纏めてみとうと云う事で取り組んだものだ。だからこれはデリダ論ではない。デリダの考えが丁度私にしっくりいった丈の事だ。 デリダの文章を読んでいると、何時も同じ所をぐるゞゝ回っている感じを受ける。だがもやゝゝと進んでいる内に振り返ってみると、ずいぶん遠く迄来て仕舞ったなあ、と云う感じも受ける。これはデリダが、或る程度考えの纏まった状態から始めてそれを次第に煮詰めてゆくと云った書き方をしているからだと思われる。この様な方法は同じ事を繰り返し書くのを好まない私とは無縁の領域に属している。だがデリダの静寂な雰囲気とそこに突然狭まる熱情と云う構成は迚も魅力的だ。
手本としては吉本の『書物の解体学』を選んだが、まだゝゞ遠く及んでいないと云うのが私の評価だ。
引用が殆ど無いのは文献が手元に無い為。
因みに、デリダと同じ2004年に死去した思想家として歷史家の網野善彦が居る。こちらもいづれ文章で喪を執り行う積もりである。
2006年8月 ネム記す
目次
端書き
〈差延〉
〈声〉
〈無垢〉
〈秘密〉
〈戯れ〉
〈差延〉
本質とは何か、普遍性とは何か。別の問い方も出来る。いったいどうしたら或る思想は普遍性を持ちうるのか?これは本気で思想しようと思った事のある者なら誰もが一度はしてみた事のある筈の問いだ。大抵は時間が解決してくれる。詰り諦めるのだ。しかし、この問いを問い自体が潰れる所まで持ち堪えた者だけが、やがて自分なりの事を言える様になる。その問いの潰れた地点が自分自身の光となるからだ。
名前に就いても同じ様な事が問える。或る名前は何故普遍的であるかの様に通用しているのだろう。何故時が経っても別の場所へ行っても通じるのだろう。、この問いに対してもちろん次の反論が思いつく。時代が変われば物の名前は変わるし、方言や外国語になったら名前が同じ筈がないではないか――。しかしここではそれは問題になっていない。今現在に於いて或る名前が通用している事自体が謎だからだ。
デリダはこの問いに対して、全く逆の所から始めて答えを与えた。そのスタート地点とは、署名の固有性である。
例えば、(申し訳ないが)
※省略 (署名「井上幸亨郎」)
という署名が有ったとする。もちろんこれは本人証明に使えるものだ。何故証明に使えるかというと、本人特有の手くせがあったりして、他の人にはなかなか真似できないからだ。詰り署名とは本人に固有のもの、いつでもどこでも本人にだけ固有のものである。だが、既にここで疑問が生じてくる。では、何故本人には普遍的に固有なのだろうか?詰り、本人にはいつでもどこでも似た署名が書けなければならないが、何故似た署名が書きうるのか? ――もっともこの問いに対する答えは簡単だ。時間・場所に関わりなく、本人は別の時間・場所での本人に似ているからだ。だがここまでで押さえておきたい事はある。それは、本人にはいつでもどこでも普遍的に似た署名が書きうるというのが、署名成立のそもそもの条件だという事だ。しかしもっとも、署名は本人には固有なのだ。 デリダと一緒にもう少し進んでみる。或る人が先程の「井上幸亨郎」という署名を見たとする。その時それが署名でありうる為にはその見た人が、「井上幸亨郎」を、嗚呼あの井上幸亨郎が書いたんだなと読めなければならい。もっと正確に言うと、或る署名「井上幸亨郎」と別の署名「井上幸亨郎」とを、同じ署名だと読めなければ、署名というのは成り立たない。詰り署名は、いつでもどこでも本人の固有性の下で普遍的に似た様に現前しなければならない。 さて、デリダ特有の反転はもう始まっている。まず、署名はどこまでも固有である。限りなく似た人が限りなく似た署名を書けるというのは当たり前ではある。だがもっとも、本人ですら同じ署名は書けない。書くたびに少しずつ違ってきている筈だからだ。詰りその意味で、その度その度の現前ごとに、署名は固有である。だが見てきた様に、固有に現前する署名が正に署名として成り立つ為には、それが初めからいつでもどこでも誰にでも同じ様に似た署名として現前するという反復が前提になっていなければならない。詰り、固有な現前が成立しうる為には、それが反復可能性という固有の死を初めから内に含んでいるのでなければならない。もちろん逆の事も言える。反復が成り立つのは、反復するものがその度ごとに現前する限りに於いてだからだ。詰り反復の普遍は現前の固有を条件として内に含んでいる。 初めの問いに戻ると、名前の普遍性が成り立つのは、名前が成立する段階に於いてである、というのがデリダの答えだった。そして更に言うと、これこそが「差延」の効果であり、「écriture」(エクリチュール)の論理なのだ。上での論述の「固有な現前」をparole(パロール)=浮遊の現前に、「反復可能性」をécriture(エクリチュール)=刻みの潜在に書き換えればそれでécritureの説明は済む。則ち、écritureへの参照なしにparoleは成り立ちえないし、そしてだからこそ、paroleの出現なしにécritureはありえない。ところでこれが「差延」になると、話が少しばかりこんがらがってくる。 〈差延〉の概念の原型はマルティン・ハイデガーの「存在論的差異」である。(序でに、デリダの「脱構築 deconstruction」自体がハイデガーの「解体」の訳語である。) <include>存在者が存在論的差異をつたって存在を見ようとする。</include> ここでもちろんハイデガーは「存在」そのものを論じたいのだ、そもそも「存在者」を如何様にしてか在らしめる「存在」というものを。詰り「存在」は「存在者」にとって先験的に措定されていなければならない。然るに我々は「存在者」である。そして一体何によって「存在」は措定されるのか?もちろん我々「存在者」によって以外にはありえない。――さあ、ここで既に反転が生じている。この反転は極限の厳密がもたらしたものだ。則ち、存在は「存在」の表象というひとつの存在者としてしかありえない。存在は決して存在者ではない、寧ろそれは存在者の条件なのだからあらゆる存在者に対して先験的なのであって、存在者であってはならない。ところが、存在は既に「存在」として現れている限りに於いて「存在」という存在者でしかない。存在はありえない、ありうるのは「存在」の表象から逆算して弾き出された存在(があると想定される方向)への視線、詰り存在論的差異のみである、と。
<include>存在者は存在論的差異の視線をつたって想定された「存在」を見る。</include> デリダの〈差延〉の議論はこれをもっと一般化して構造のみを取り出し、思考全体に拡張したものだ。この世には現象がある。そしてこの現象はむかしのむこうの根元によって基礎付けられる。しかし、はっきり言おう、有るのは「根元」の表象という一つの現象だけだ。まず現象以前の現象がある。ここから逆算して過去へ向かって「根元」を設置した(デリダの言葉を使えば「現象」が過去へ「根元」を代補 (supplément)した)正にその瞬間から「根元」は存在し始め、現象以前の現象は「現象」へとなる(これはécritureとparoleとの関係も同じだ)。そして、この代補 (supplément)の動き、〈差延〉の動き自体は「根元」や「現象」よりも根元的だ――と、これが〈差延〉の説明だ。更に、この眼を剥く様で弁証法的な完膚なきまでの反転は、極限の厳密性によってこそもたらされたのである。 〈声〉
疑うという事の極限の風景を最初に見せてくれたのはルネ・デカルトだった。それを更に限界へまで持っていったのはエドムンド・フッサールだと言ってよい。デリダの『声と現象』はフッサールのこの疑うという態度を厳密に徹底することでフッサールの超越論的現象学を転倒した本である。
デカルトに於いてコギト(Cogito ergo sum. 我思う故に我あり)を導いたのは、あらゆる表象はそれが疑いうるという点に於いて疑われねばならない、というテーゼである。その時に残るのは、疑うという思念だけだ、と。だがここで、「疑う事」という表象はもちろん残らないのだ。詰り、懐疑の残滓とは、「疑う事」から逆算された“主体”、主体という無である。ジャック・ラカンの精神分析理論での、抹消された主体S/がちょうどこの〈無〉に当たっている。対自としての他化された自分、詰り存在する主体Sは、世界内的=現象的な自己であり、無としての思考する主体(視座)S/は、超越論的な自己である。 ここでデリダの『声と現象』に於ける反転を見るのは意味がない。前節での“parol -(〈差延〉)- écriture”の反転と全く同じだからだ(イデアの現前性と反復可能性との両義性を適用するのだ)。だが、デリダがこの『声と現象』という本でフッサールへの徹底的読解により示した〈声〉という概念は意外と謎のままだ。そもそもデリダはフッサールの現象学(中期の超越論的現象学も、後期の<tagset><body>発生的</body><tag>生活世界の</tag></tagset>現象学も)をどの様なものと見做しているのか。 返答自体はひとことで言える。現前の形而上学の極限だと見ているのだ。現象学とは生き々ゝした現前の学だと。
フッサールは現象学を始めるに当たって、まず現象を、被媒介的で間接の現象(指標)と、明晰判明で直接の現象(表現)とに分離する。世界内にあるものは全て、光だとか音波とかによって媒介されているから間接的であり、生き々ゝした現前としてはダメである。こうして世界内に刻み込まれたものの現前はすべて表現から排除される。生き々ゝした現前とはだから、〈刻みの潜在〉を持っているのではだめで、初めから根元のない〈浮遊の現前〉でなければならない。そしてそれは、〈声〉である。もちろん「音声」というのは比喩な訳だが、何故〈声〉なのかというと理由は単純で、人は話す時に自分自身の声を直接に聴いている、詰り、「声は、自分を聞く (=聞かれる) のだ。」(*1) 更に、内省(内語)とは声である、詰り「声は、意識である。」(*2)
ここで〈声〉がいったいどこのあるのかというのは、かなり奇妙に謎である。或る時は超越論的自我$ \cancel Sに対して生き々ゝと現前する何かであり、$ \cancel Sと共にあるが$ \cancel Sとは別の何かである。又或る時は、ふわふわと浮遊して $ \cancel S- モノ の系列とは別の所にある何かである。或いは寧ろ、フッサールやデリダの文脈からすれば、〈声〉は$ \cancel Sそのものである。
ラカンの理論を見ておくと、ラカンは主体を三つに分ける。まずは象徴秩序の中での同一性の主体S1(又は〈主人のシニフィアン〉の下での主体)、次に何者かの〈知〉によって創造された人工物としての位相にある主体(詰り“根元”に繋がれた主体)S2、最後に抹消された空虚な超越論的主体S/だ。ジュリア・クリステヴァの理論を使ってこれをもっと図式に表すこ事ができる。
ラカンの用語で言い換えると、$ \cancel Sがあるのが〈<rubyset><rubybase>現實界</rubybase><rubytext>ル・レエル</rubytext></rubyset>〉、$ S_1があるのが〈<rubyset><rubybase>想像界</rubybase><rubytext>イマジネール</rubytext></rubyset>〉、$ S_2があるのが〈<rubyset><rubybase>象徵界</rubybase><rubytext>ル・サンボリック</rubytext></rubyset>〉となる。$ S_2は〈象徴的父〉の下にあるエディプス・コンプレックス的な主体である。一方$ S_1はクリステヴァの用語で言えば、〈未だ空無のナルシス的主体〉、詰り未だ秩序に入り込んでいない自己閉鎖した主体だ。ここでAは〈原初の母〉=<rubyset><rubybase>棄却すべきもの</rubybase><rubytext>アブジェクシオン</rubytext></rubyset>で、Pは〈想像的父〉といい、これら二つはどちらも同じ“母”の二つの様相だ。$ S_2から見てこのPこそが、主体を人工物S1として創造する〈知〉なのだ。 この三つのS2, S1, S/は確かに別物だがしかし、一つの主体の様相の其々を表している。ヘーゲルの言葉を使って弁証法的に位置付けてもいい。S2はテーゼ(定立、S2から見て即自)、S1はアンチテーゼ(反定立、S2から見て対自)、S/はジンテーゼ(総合、S2から見て独異)になる。又、S/はS1やS2にとって、外部にある極めて内密なものとして、ラカンは「外密」という言葉を使ったりもしている。
だが要するに、〈声〉はこれら三つの全てに、完璧に関るのだ。則ち〈声〉はS/から見て、或る時はS2、又或る時はS1、そして或る時はS/とは別の所にあるS/自身(この脱中心性はS/の逆算成立過程をみれば原理的なものだ)である。しかし同時に〈声〉は、三つのどれでもない徹底して外</span>密なものだ。
詰り〈声〉は、そもそもS/, S1, S2へと分かれうるような「主体」が生まれ出づる以前を表している。ここまでくると、もう、〈声〉とはparoleでもécritureでもなくて、浮動して有るより他はない現象以前の現象であらざるをえない。 〈無垢〉
他者は如何にして存立しうるかという問いに対して、フッサールは「類比的付帯現前化」という答えを与えた。私なりに纏めれば次の様になる。まず超越論的自我を起点としてその近さから、自分の精神(触覚 - 聴覚)と自分の身体(触覚 - 視覚)とが現前する。又、物体として或るモノが現前し、その形状・動きと自分の身体との類似性に基付き、それが身体である事、しかしながら自分から乖離しているが故にそれは他の身体である事が現前する、詰り他の身体が現前する。そしてその他の身体に自分と同じ構造、或いは寧ろ、「我」の構造一般(他者一般)を付与する。後は個別に肉付けするだけ。、と、こうなる。私はこのフッサールの発生的現象学は、生成過程を単純化し過ぎではあるとしても、共時の構造としては全く正しいと思う。でも大旨この説は迚も不評で、様々な哲学者が異論を編み出してきた。“洗練”された異論を二つ見ておく。一つはモーリス・メルロ-ポンティのもので、もう一つは<rubyset><rubybase>柄谷行人</rubybase><rubytext>からたにこうじん</rubytext></rubyset>のものだ。
同じ身体の現象学でも<rubyset><rubybase>市川浩</rubybase><rubytext>いちかわひろし</rubytext></rubyset>の他者論(中心化←→脱中心化)はフッサールの論とよく似ている。だが、晩年の〈<rubyset><rubybase>肉</rubybase><rubytext>シェール</rubytext></rubyset>〉を除いて、メルロ-ポンティは全く別の道を選んだ。彼男にはフッサールの現象学は、他者を自己が完全に決定できる全くの独我論に思えたからだ。そこで彼男は「間身体性」――世界がその初めから他者を含んで現れていること――を導入する。自己の身体も初めから間身体性に漬け込まれているのだから、自己にとって他者はもうどうにもしようがないのだ、云々。しかしこれは他者への思想のテロルである。何故なら他者はメルロ-ポンティの思想によりその初めからどこまでも規定されているからだ。思想が他者を完全に決定している。
その点、ポストモダンやポスト構造主義を学んだ柄谷の理論はもう少しは慎重である。そしてその分フッサールにより近くなっている。曰く、他者はコミュニケーションの通じない(言語ゲームを共有していない)「異邦人」である。話が通じないのだから、我々が外国人に対する様に、まず言語ゲーム自体を共有しようとしなければならない。その時の態度は、形而上学がとってきた内省の「話す - 聞く」ではなくて、「教える - 学ぶ」である。更に「教える」側とは相手に「学ば」せる強い立場なのではなく、本当は、「学んで」もらう弱い立場ののだ、と、云々。だが柄谷がいくら頑張ろうが、学ばせるか学んでもらうかに関わらず、本当は、躍起になって教えるのだという点は変わらない。これは正に「前衛」的知識人が「愚民」なるものを啓蒙するやり方に他ならない。柄谷風に言えば、異邦人を無理矢理にでも「話す - 聞く」の内省に引きずり込む「現前の形而上学」だ。
エマニュエル・レヴィナスもフッサールの方法に反対した一人である。則ちフッサールの「類比的付帯現前化」とは自我Sから他者を構成して規定する「超越論的暴力」である。又ハイデガーの「存在者」は、全ての他者を存在の所有を通して「存在者」として規定する「存在論的暴力」である、と。その代わりにレヴィナスは〈顔〉の倫理学を建てる。まず自己の世界がある。ここには何の倫理もない。ただ、自己が世界の構築を所有するという暴力があるだけだ。だからこの世界は徹底して有限である。有限しか所有はできないからだ。そしてここに「他者」が現れる。所有されないものとしての他者の存在が。所有されない無限の現れとしての〈顔〉が。〈顔〉は現れると共に無限の〈無垢〉から呼びかける――「汝、殺すなかれ」と。この非暴力からの呼びかけ(それは無限であるが故に、一度聞けば抵抗できない)への応答に、倫理は開始する。 デリダは先ず、レヴィナスのフッサール批判を批判する。フッサールこそ他者を慎重に尊重しているのだ、何故なら他者が「他」者である限り「他者」としては現れうるものではなく、自己が規定した形でしか現れえない、というのをフッサールはきちんと押さえているからだ。フッサールはレヴィナスの様に安易に〈顔〉を導入したりはしない。
要するにレヴィナスは性急に過ぎたのだ。他者を「他者である」と言う事、これが既に暴力である。〈無垢〉はありえない、この暴力こそが責任 = 應答可能性 (responsibility)を成り立たせ、他者を全く所有しようとする「昼の暴力」に抵抗しうる倫理を開始するのだ。応答の「原暴力」のみが暴力を批判しうる。 この原暴力という言葉をデリダは固有名の考察にも出している。また柄谷を持ち出すことになるが(デリダはクロード・レヴィ-ストロースを基に議論しているけれども)、柄谷は「これ」の固有性を類化の暴力(類化は内/外を規定して他者を外へと排除する)の及ばない〈無垢〉だと言う。がしかし、固有は類化を免れない。何故なら反復可能性によって。詰り固有性を措定するために固有名を付けることは、固有名が反復しうる、固有名が付けられたのは構造から言ってべつに他の何でもよかったのだ、という反復可能性によって固有性を奪う。固有性を認めることで固有性の〈無垢〉は失われる。だから、〈無垢〉は、原暴力である。
♪
レヴィナスの倫理論は、他者の呼びかけが定言命法(ここでは「汝、殺すなかれ」)である点で、イマヌエル・カントの道徳理論と酷似している。定言命法とは〈法〉の呼びかけだ。そしてレヴィナスにとって他者への応答が無限の倫理であるのとは違って、カントでは〈法〉への応答がもたらすのは「根源的〈悪〉」である。 根源的〈悪〉もまた倫理の原初に関わる。それは善/悪を決定する〈法〉の暴力なのだ。
カントは悪を三つに分ける。
1. まだ他者の呼びかけのない状況で、欲求に沿って行為する時の悪。単に対象へ向かう時の悪。
2. 「他者の愛」を要求する段階での悪。向かう対象は既に、何でもいい。自分は欲求に沿って行為しているのに、他人に対して何か善い事を(悪い事をでもいい)していると思っている。詰り、他人が自分の欲求に応える事を要求する。自分の欲求が善であり求めない事が悪だとする態度、の悪。
3. 法への応答として根源的〈悪〉。ここで初めて“善”が可能になる(と同時に“悪”も可能になる)。〈法〉(ラカン風に言うと「大文字の他者A」、ジャン-フランシス・リオタール風に言えば「大きな物語」)に倫理の理念を見て、〈法〉Aに入る事を欲望する、或いは抵抗を欲望する。ここでの善/悪は個体の理念と情況との関係によって決まる、いわゆる「關係の絕對性」(<rubyset><rubybase>吉本隆明</rubybase><rubytext>よしもとたかあき</rubytext></rubyset>)の段階である。 要するにここでは、関係を取り除いてしまったら、善と悪との区別は付かない。
レヴィナス&デリダの原暴力とカントの根源的〈悪〉とは極めてよく似ている。しかしこれらは全く違う様に思われる。何が違うのか? 恐らく、〈法〉は全き他者tout autreではないのだ。何故ならば〈法〉は自らを明かす、その限りに於いてのみ〈法〉でありうるからだ。逆に他者はその呼びかけに於いてこそ自らを秘密とする。他者はあらゆる〈無垢〉としてしか現れないからだ。〈法〉に対して責任を果たすならそれは他者を排除する事になる。だから、原暴力は根源的〈悪〉ではない。
だがしかし、話はこう単純には終わらない。何故なら他者は他者である、そして〈法〉も他者であった。或る他者をその属性に於いて明らかだと見做し、責任=応答実現を果たすなら、その他者は既に〈法〉である。そして、呼びかけが明らかでなければ責任 = 應答可能性 (responsibility)はもう成しえない。だから、原暴力の倫理に於いて根源的〈悪〉は既に始まっている、或いは寧ろ、原暴力は根源的〈悪〉の一様相である。ただ原暴力(〈無垢〉)の根源的〈悪〉に有らざる所への方向性を取り出すとすれば、原暴力は他者にparole=浮遊の現前だけでなく、écriture=刻みの潜在<を想定しているという事だけだ。 〈秘密〉
デリダはヤン・パトチュカの論考に沿って、〈秘密〉を三つの段階に分けた。
まず最初にやってくるのは、共同での魔術の秘儀(ダイモーン的な秘儀=狂騒)である。
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〈戯れ〉
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* 引用文献 *
*1 ジャック・デリダ『声と現象』林好雄訳 ちくま学芸文庫
*2 ibid.
*3 ジャック・デリダ『死を与える』廣瀬浩司+林好雄訳 ちくま学芸文庫
*4 ibid.
// 参考文献 //
第一節 ――〈差延〉――
高橋哲哉『現代思想の冒険者たち28 デリダ』講談社
『声と現象』
第ニ節 ――〈声〉――
『声と現象』
スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』酒井隆明+田崎英明訳 ちくま学芸文庫
西川直子『現代思想の冒険者たち30 クリステヴァ』講談社
第三節 ――〈無垢〉――
『声と現象』
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』訳 岩波文庫
柄谷行人『探求Ⅰ』講談社学術文庫
『否定的なもののもとへの滞留』
第四節 ――〈秘密〉――
『死を与える』
奈須きのこ『空の境界 上』講談社ノベルズ
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳 ちくま学芸文庫
第五節 ――〈戯れ〉――
大橋良介『西田哲学の世界』筑摩書房
『現代思想の冒険者たち28 デリダ』
以上