「序説第五版」結論要約
「確実性」(2006-03-23 - 2006-03-30)
2. 〈疑問提示不可能性〉とは、もし捉えるとすればそれに対して「それは本当に確実か?」と問い得るが為に、捉えられない。ありうるならば、無限遠の極限概念としてだけだ。 3. (射影幾何での考察から)無限遠の絶対の確実性は、無限遠にある間だけ「絶対の確実性」として成立しうるし、捉えられた時には世界の相対に埋づもれてしまう。
4. (射影変換の考察から)絶対の確実性が存在しなくとも世界の動きには何の影響もない。
3, 4では絶対の確実性を$ x_3=0の無限遠直線でモデリングした。
「正統性」(2006-05-22 - 2006-05-25, 2006-12-10 - 2006-12-17)
1. 思想は常に喩的に進む。
2. 思想は思想家にとって先験性の関係にある。そしてもし思想の先験性から逃れうるとすれば、思想と思想家が自在性の関係に入った時、則ち、思想の正統性が思想それ自体にあるのではなく、思想主体と情況とに発散した時である。
3. 制度の正統性の最終的な根拠は時代の無意識にある。時代の無意識は段階的なもので、個々の無意識から理論的に抽出された、時代の雰囲気である。
(以上前半)
4. 思想に党派性以外の正統性なんてものがあるとすれば、それは不可避に進むこと、極限から還ってくることであり、啓蒙しないこと、永遠極限を思想の背後に癖として刷り込むこと、倫理に於いてもまた同じ、還ってくること、理想へ駆け込まないこと。 「視座論」(2006-03-30 - 2006-04-06)
視座論の成果は次の図に集約される。私はまず、「ハイ・イメージ論」に於ける吉本隆明の普遍像学を援用し、〈生活世界〉と普遍視線/世界視線の概念を設定した、というより借用した。 (圖)視線の構造
それぞれの概念に就いて細かく言うと、〈生活世界〉とは私達が普段、呼吸し、物を食べ、寝て、愛をしたりしている現在を言っていて、普遍視線とはそのように生活している人間の地上の視線、則ち〈生活世界〉に於ける生活の視線だ。対して世界視線は、中沢新一的な〈プラス一次元〉の概念を使って構成される。詰り、〈既死〉や〈未生〉から〈生活世界〉へと入り込んで来る俯瞰する視線が世界視線だ。これは死からの画像で、近似的には、ランドサットの映像や、走査型トンネル顕微鏡などで表される、イデアルな視線だ。 死からの世界視線で見ると、世界の差異は全て自然という単一の色の表面上の区別へとなり、言い換えると、世界全体を〈既死〉や〈未生〉の方へと還元してしまう。だから、〈プラス一次元〉から見ると、どんな意味があるか、詰り〈生活世界〉の奥行きが切り落とされて見える。この切り落とされる〈生の次元〉とでも言うべきものを私は意味生成性 (シニフィアンス; signifiance) の次元と見做し、ジュリア・クリステヴァから「ル・セミオティック (le sémiotique)」の概念を借りてきて設定したのが內包視線だ。この內包視線は〈母胎〉の方から現在の視座へとやってくる視線で、普遍視座の活動の原動力となっている。更に言えば、內包視線は視座の根拠であるが、一度〈生活世界〉が成立してしまえば、普遍視座の中へと溶解する。因みにこの「內包視線」という言葉は森崎茂の「内包存在」から借りてきたものである。 內包視線と世界視線を対照すると、內包視線はその遡行の先に〈自然〉的な異界を想定させるのに対し、世界視線は〈生の外〉からやってきて〈生活世界〉に隣接しながら走っていきまた〈生の外〉へ戻るという形の、外部的な異界を構成する。 「生命論」(2006-04-06 - 2006-04-24)
私は生命論を、生物はそれが生物だから生きているのではなく、生きているから生命なのだ、というモチーフから出発した。詰り生物と無生物を分けようとする議論は無効だという事だ。例えばウイルスがどちらかというのは考え方により変わってくるし、又、木や石が生きているという世界観もあれば、本当に生きているものは世界には存在しないといった世界観もありうるからだ。
まず私は、生命は生誕と死亡とに挟まれた時間性の中で〈瞬間〉を生きるのだ、と措定した。ここで私は吉本の「瞬間論」を使い、〈瞬間〉は触覚的な共通感覚を基礎としていて、ほんの少しの未来である行為とほんの少しの過去である感覚とが多重に積み重なったものだとした。この〝多重〟は、生命の〈自然〉との異和を本質としている。詰り生命は、內包視線に沿って少しずつ〈自然〉から疎外されてきたと見做せる。 ここで、この様に〈自然〉から疎外されたものとしての生命と、視座としての生命を、どう接合させるかが問題となる。私はエドムンド・フッサールの超越論的自我の考え方を視座としての生命の極限と見做し、ジャック・デリダの「声と現象」からフッサールの視座の特徴を抜き出して図像化した。
(圖)生命に於ける視線の構造
ここから更に私は、デリダの声の考察と、市川浩の「〈身〉の構造」と、吉本の「母型論」を使って、次の様な生命を描いた。
1. 知覚は、触覚から視覚の方へ昇ってゆく対象的な系列と、触覚から聴覚の方へ昇ってゆく共通感覚的な系列との、二つから成る。それぞれは自己に向けては、対自線と自覚線を描き、これらが錯合する所に生命は現れる。
2. 生命の原初のイメージ、〈自然〉のイメージは、〈大洋〉の中で種々の波音がさざめいている状況で表される。ここから、波音が折り重なっていって、孤島の様に析出された時に、外物の知覚と内コミュニケーションが分離する。然して〈大洋〉の波音と孤島からの波音とが衝突する点に自己が形成され、これで生命の条件が整ったことになる。