simple と easy は對立しない
simple か easy か? と問はれる場面も有る。これが simple XOR easy であるかと言へば、そんな譯は無い。simple にすれば hard になり、easy にすれば複雜になる、そんな譯は無い。そんな trade off は無い。
この講演では simple と easy を定義してゐる。
simple の反對は complected、easy の反對は hard。
simple とは一つのものに對應する槪念が一つである事。complected とは一つのものに對應する槪念が複數である事。simple であるか complected してゐるかは客觀的に決まる。誰が判定するかに關はりが無い。學問と同じく議論の對象に成り得るだけだ。
easy とは自分に親近してゐる事。hard とは自分から疎遠である事。easy であるか hard であるかは主觀的に決まる。判定する者の經驗、文化等に依存する。判定する枠組みが大きく異なると、議論の對象に殆ど成り得ない事も有る。
上記の講演では、simple は easy を導くとは話してゐない。simple と easy の關係に就いては、simple と easy は異なる觀念である、simple は easy に成り得る、位いの事だ。この講演では simple に就いて話してゐる。
simple と easy は背反すると云ふ雰圍氣で話されるのを聞く事すら有る。經驗的にさうだ、と云ふ譯だ。だがこれは經驗が誤ってゐる。
simple を考慮せずに何か變化させれば complected になる。simple を考慮せずに easy にしようとすれば complected になる。easy にするから complected になるのではない。simple を考慮せずに何か變化させるから complected になる。
easy を考慮せずに何か變化させれば hard になる。easy を考慮せずに simple にしようとすれば hard になる。simple にするから hard になるのではない。easy を考慮せずに何か變化させるから hard になる。
simple を考慮するか easy を考慮するか、人は短時閒では一つの事しか氣にしてられないと云ふだけの事だ。更に、simple を考慮しようとしても simple の一部しか氣にできない。easy を考慮しようとしても easy の一部しか氣にできない。
だから simple と easy は trade off ではない。しくじるだけだ。trade off だと云ふなら、simple と simple は trade off が有り、easy と easy は trade off が有ると言はねばならぬ。
因みに complected であれば hard に成ったりもしない (認知限界と云ふ觀念は主觀的な基準だ)。complected であっても親しければ easy だ。多くの人閒は、人閒と云ふ complected な對象と簡單に親しくなる。斷崖絕壁を登るのは simple だが多くの人にとっては hard だね。
さて easy を目指すと云ふ事は。
easy であるか否かは判定する者の background に近いか遠いかだ。人類と云ふ background を當てにするのでなければ、service を提供する相手の background を制限すると云ふ事に成らう。宮大工の現場の人に Mackerel を賣る譯にもいかないだらう。
假に「enterprise の人々を相手にするなら、今迄と同じ background を想定してはいけない! background を變へなければ! 詰まり製品をごっそり變へなければ!」と考へるなら、これに贊成すべきな否かは私にはわからない。それは正しいかもしれないし、それは、enterprise の人達には自分と違ふ人種であって欲しい、違ふ人種でないと困ると云ふ思考停止かもしれない。