2013/9/18 時間は現在に於いて、構造的に存在してゐると謂ふべきだ
想起とは過去の二義的な形態に過ぎない。同じく予期も、未来の二義的なものに過ぎない。時間は現在に於いて、構造的に存在してゐると謂ふべきだ。巧い言い方ではないが、過去は、謂はば引き摺りや滴りの様な形で、現在に於いて構造的に存在してゐる (全過去)。若し然ふではなく、過去は想起の認識や因果の原因として存在してゐると考へたとしたら、例へば〈鬱〉の状態では、過去は現在に直接重みの様に存在してくる事を説明できない。ただ病的な精神と見做して了ふ。現在では、此の様な考へは、有効ではなくなってゐる。
わたしが昔書いてきたことは、此所に含む事が出来る。時間の重層性な事と、段階と云ふ事だ。
意識からみた自然の時間は単線的であるが、心的な領域は、この自然からのいまだ知り得ない選択として成り立っている為に、分岐と重合を繰り返す複合的なものである。単線的な時間が、心的な領域にいやおうなくやってくるときに、偶然と必然とが等しくなり、わたしたちはこれを運命と呼んでいる。
類型化していえば、単線性からの分岐は、うまれてから幼児期に至るまでにはじめてやってきて、迂曲あって、そのつぎには青年期に、社会のみえる全体性にあてられたときに、殆どは決まってゆく。この、うまれながらの資質のようなものの、いくどもやってくる反復と、青年期に獲得した外側の社会との差異を、運命といいかえてもいい。
言語は意識の時間に継起するが、この時間は当然一単線ではない。
時間の複線が、それじたい自然と見做され、単線へとおしこめられるときに、時間の余剰が空間化してゆく。逆に、拡がった空間の内側へ入ってゆけば、空間に於けるものの関係が時間化する。
cf. 以前からは想像もつかないにも関わらず、以後からは合目的に見え、又、以前迄に於ける変化の系列を、以後の観念からは全くちがう変化の観念の系列として、総体的に捉えられる、それがあたかも合目的である、そういう必然な移行を以て、〈段階〉の移行と言う 段階 #memo - c4se記:さっちゃんですよ☆ 以前からは想像もつかないにも関わらず、以後からは合目的に見え、又、以前迄に於ける変化の系列を、以後の観念からは全くちがう変化の観念の系列として、総体的に捉えられる、それがあたかも合目的である、そういう必然な移行を以て、〈段階〉の移行と言う。