2008/10/16 ボノボなど〈動物〉と、〈人間〉のちがい
〈人間〉とはわたしたちが今、人であると認める物の総体であることはまちがいない。ではわれわれは、何によって其れを判別しえているのか。
幾つか挙げられる。〈観念〉を持ちえていること。「道具の使用」なども本質的にはこの能に依る。言葉をもつこと。これも前者の能に依ることは疑いもない。文化をもつこと。つまり文化を、ミームを考えても支障のない程それを独立なものとし、第二の自然とするまでに生活することである。これによって〈人間〉は無意識では、〈自然〉を恣意に持てるようになる。
これらは〈人間〉と〈無機物〉の違いと同値である。つまり〈自然〉に階梯を考えている。先ずは〈無機物〉――これは自然のもっとも原始な様態である。次に〈植物〉、生理の流れが自然の運動と同値になっている。〈動物〉は、内的な世界を保持するが、それが於いて有る場所は〈自然〉のみである。〈人間〉は観念を持ち、幻想に於いて有る。
こういう事でわたしは何が言いたいのか。人間は共同の幻想を持ちうるまでに生理から相対的に自由だといいたいのか。それもあるが、ここでは人間の段階では〈喩〉が可能だということである。自明だが〈喩〉の萌芽は無機物からある。或る分子が別の分子と反応してうごきを変化したのなら、それは〈喩〉の萌芽といえる。また石があり、これが風に吹かれて、他の地面と独立して動いたのなら、これは〈喩〉の萌芽だといってよい。だがここでは〈喩〉が世界に比する強度をもちうるほど強くはない。つまり〈喩〉は世界の厳密に全体と対応する構造をもつ、そこにまでは到達した段階を〈人間〉と呼びたいということだ。
もちろんわたしたちは普段、なんとなくしかこういった直感を用いてはいない。如何な胎児や死体であっても、見た目などのなんとなくから、それを人間であると判断するのみであるし、もちろんそれで正当なのだ。生活では或るカテゴリーは、類比的類似性のみで定まる。内包も外延も、一意に定まる必要はとんとないのだ。わたしたちがボノボなどを〈人間〉だと見做さない理由は、それが社会の人間に似ていないから、それを人間と認めることに習熟していないから、に過ぎないが、その習熟の大きさは容易ではない。