批判 | 非難・承認
この書では、思考の、特に rhetoric の合理的な有り樣は一通りではない事が、四つの有り樣を具體的に示して明かされてゐる。この紹介自體が私には有益な事だった。
批判 (critique) と云ふ語は「非難」と混同されがちだが、私は異なると思ふ。
批判 :
形聲。「手」+ 音符「比 /*PI/」。「うつ」を意味する漢語 {批 /*phii/} を表す字。のち假借して「優劣を評價する」を意味する漢語 {批 /*phii/}に用ゐる。
形聲。「刀」 + 音符「半 /*PAN/」。「わける」を意味する漢語 {判 /*pʰˤanh/} を表す字。
critic :
昔は critick、1580 年代、「判斷を下す者、特定の物の class の價値を判斷する skill を持った人」を意味し、フランス語の critique (14 世紀) から、ラテン語の criticus「裁判官、檢閲者、評價者」、また「文學作品の信義のない部分を發見する文法學者」から、ギリシャ語の kritikos「判斷を下すことができる者」、krinein「分ける、決定する」(PIE root *krei-「ふるいにかける」、したがって「識別する、區別する」) から派生。『本、劇などの價値を判斷する者』といふ意味は 1600 年頃から。英語の單語は常に「檢閲者、缺點を指摘する者、嚴しく判斷する者」といふ nuance を持ってゐる。
これを讀む限りでは批判と云ふ語は二つから成る。
1. 對象を、同じ範疇の他と比べる。
2. 評價する。價値を判斷する。
一方で非難 (批難) は、blame と譯すべき語で、對象の價値を下げる行爲だ。評價は既に終へてあり、價値が低いと云ふ事を如何に傳へるか心を砕き言ふ行爲だ。
(他の人の弱みや過ちを) 責め、なじり、こき下ろす とがめ立て。
「非難」の別表記。
批判と同樣に、criticize と云ふ語もこき下ろす意で使はれる。この事からも批判は非難と混同され易い事が窺はれる。比べる・比較する行爲も、價値を判する・評する行爲も、對象を相對化し有限化する過程を經る筈だ。比較は對象が他のものと同列に言へるものである事を含意する。評價は對象が無限の價値を持つのでなく、對象にとって外なる基準で計れるものである事を含意する。批判は逆說的に對象が、絕對あるいは空虛で比較不能である、無限あるいは無で評價不能であると結論してもよい。批判は對象が批判不能であると結論してもよいが、批判可能であると見做す限りでは、たとへ他より優れ價値が高いと評定する場合であっても、對象の絕對性を疵附け相對化し、無限性を疵附け制限する。逆に「評價する」と云ふ語が對象をよいものと認める行爲を指しもするのは、批判が、對象が消え去るものでなく既存と同列であると見做し居場所を與へ、價値が無でなく有である事を言ふ行爲でもあるからだ。
私は本書を讀みながら、比較は二つの對象のみによってはうまくできない事を直感した。本書では合理性の在り方を$ 2\times 2=4通りに體系附け、どの作文方式も、或る領域では最高であり、他の領域では不合理に見える事を示唆してゐる。對象が二つしかない場合、互ひに映し比べ、それぞれ一つの角度から照らすに留まる。その角度から見ると云ふ事自體は何からも拘束されない故に、比較する相手がそれである事は單に任意であるに過ぎない。他の相手と比較してもよく、異なる位置附け・評價になるだらう。對象が$ 2\times 2=4個在れば、$ _4C_2=6通りの比較が成され、或る比較は他の五つの比較に體系內で拘束される。體系が說得力を有せば批判の說得力を補強しよう。