序説第一版
此の『序説』は私の最初の、然して最後 (にしたいなぁ) の序説である。此れは思想の原理への思想を示したものである。基本装置は永劫囘歸、物象化等多数あるが、私としては不可避だけを抑えていただければ充分である。他は全て不可避からの不可避的な派生に過ぎない。 その1
私の基本イメージとしては、思想というものは必ずや不可避に遣って来る。此の点で多くの場合異論に出会う。詰り、「(私が取り組んでいる或る) 其の様な問題は考えるに値いしないのではないか」、若しくは、「(私が取り上げていない或る) 此れ此れの問題を考えずして果たして思想していると言えるのか」と。大体は此の二つに尽きる思う。此れ等の問いには「思想は不可避に遣って来るし、又必然的にしか来ないのだ。だから問いの正当性は洞所まで問いに追い詰められ、洞所まだ問いを追い詰めたかという事以外に基準は有り得ない」と答えるのみだ。 或る思想が真理か洞うかに就いては明確な基準が示せる。其の思想に依って洞所まで<del title="永遠極限は如何様にも掴みえない。">永遠極限 / </del>永劫囘歸を掴み得るか。 然し此の基準はもっと詰める必要が有る。第一私自身の思想に反している。嫌、反していると云う事自体実は反しているのだ。実際此の基準は定め切れない。「私」をセーレン・キルケゴールや柄谷行人に倣って単独者<del title="余計>・固有名</del>として想定する限り (又此れ以外の想定は有り得ない――逃げられない)、思想を差延の命令で否定することは出来ても、其れ以外の事は出来ない。
永劫囘歸は絶対の内部・全肯定・有の場処・Oui Ouiであり、永遠極限は絶対の外部・全否定・絕對無の場処・非在である。我々が逃れられないとは永劫囘歸の螺旋に巻き込まれざるを得ないという事。永劫囘歸から「祈る」事、祈りを「贈与」する事で永遠極限と関係$ \cancel{しない}とのみ語り得よう。言えば、祈る事の<ruby><rb>方向</rb><rt>サンス</rt></ruby>の先は吹き消されている。だが只其れ丈が神の啓示に対する正義なのだ。哲学の目的を私は次の様に定式化出来る。詰り自らを救済する事に因り怪物に成る事だと。私は正義を貫徹したい。 何かを述べる時を考えてみる。主張する事は必ず決定であるという点で、中央 / 周縁の階層的二項対立は本質的である。抑々世界は対象で成り立っていると言うべきだ。其れは詰り洞ういう事かと言うと、方向 (サンス) の基が抹消されている事を表す。「私」という<ruby><rb>根源</rb><rt>アルケー</rt></ruby>が常に既に補完不可能に省略されている。此の対象化と啓示の構図は等しい。何が違うって、基の延長先、仮に補完されるものが自分か他分かが違う。
その2へ続く
その2
思想は不可避に遣って来るし、又必然的にしか<ins>遣って</ins>来ない。或る事を問う正当性は只其れが不可避として問われざるを得ないという実際に因って<ins>依って</ins>のみ保障される<ins> (誰も其の資格を持たない)</ins>。哲学は分業体系の自己言及点(死)であるが、思想は分業から段階を超えた所に有る<ins>排除されたもの (死) である</ins>。 決定するとは分断線を引き、中央 / 周縁の階層的二項対立を秩序付ける事である。脱構築とは中央に周縁からの浸潤という贈り物(毒)を指摘し、正義を貫徹しようとする身振りである。
正義は疑問提示不可能でなければならない、詰り、問うた瞬間常に既に<ins>必ず</ins>――其れは判定出来ないのだが――飲み込まれていなければならない。 神は永遠極限であり、祈る事と啓示<ins>勅される事</ins>でのみ関係出来る<ins>関係――出来ない</ins>。祈る事は願う事ではない。祈りとは祈りの贈与であり、其れ自体は決して現前しない<ins>、立ち現れる</ins>。言わば祈りは<ruby><rb>方向</rb><rt>サンス</rt></ruby>の先が、啓示では<ruby><rb>方向</rb><rt>サンス</rt></ruby>の基が抹消されている。 何かを言う時、其所には必ず「私にとって」、「私としては」が常に既に省略<ins>棄却</ins>されている。此の永久重力<ins> (非主体)</ins>は補充不可能<ins> (死体) </ins>である。則ち何時も方向の先が裏から導入されている。
唯一反復の無いものは自らの死である。
<del title="永遠極限は述べ得ない。">永遠極限は述べ得ない。其れは決して方向が届かないという所に於いて、である。</del> 永遠極限<ins> (defarance)</ins>は述べ得ない。其れは常に棄却されている所に於いて、である。 <ins>永久重力は永劫囘歸の爪の先に成り立っている。</ins> 「私 (原主体)」は後になって延長に因り見出される<ins>鏡 (他者) から反射されて物象化される</ins>。だから「私は思う」という私の意識は「自分が話すのを聞く」<ins>(独我論)、「声は、自分を聞く (= 聞かれる)」</ins>というのが根本構造である。「声は意識である。」
独我論とは永久重力から逃れ得たと思う<ins>いう風に自覚する</ins>事、則ち「自分に成り立つ事は皆に成り立つ」と信じる論理である。<ins>だから「他者をありえない仕方で定義する論理」となる。</ins>所が、永久重力から逃れ得ない。
永遠極限は言わば極限として延長するしかない。詰り次の様に表せる。 $ ヱ>\lim_{x\to\infty}x.
人から傷付けられた時は必ず同時に人を傷付けている。人から奪った時は必ず同時に人からも奪われている。此の「天に唾きす」という構造は本質的だと思う。
思想は救済の為にする。思想なぞする者は救われていない馬鹿者だと思った方が良い。
私の書く事は毒だ。
永劫囘歸 (差異反復) は絶対の内部であり、出る事も出来なければ戻る事も出来ない。全てが其れ其のものなんだから。 分断線が権力線へと昇華しない限り暴力は起こらない。例えば黙契が禁忌にならない限り迫害は起こらない。然して其れは周縁の実際的な発生に因る<ins>性に依る</ins>。
<ruby><rb>情報伝達</rb><rt>コミュニケーション</rt></ruby>は常に他者に向けて行う。話が通じていると確言する契機は無い。要するに可能性が無条件に必然性へと昇格される<ins>「命がけの跳躍」をする</ins>。
実体なるものはすべからく物象化の産物である。物象化とは習慣的な事象が凝結して実体にまで昇華される事である。<ins>正確に言うと物象化は習慣的なものでなくとも良い。只納得する事に因り凝結すれば其れは達成される。</ins>
関係の原型は性だ。自己関係の原型は自涜だし、対関係の原型は性交だし、共同関係の原型は祭儀だ。又、関係はこの三種に尽きる。
「私は~と知っている」と言うムーア言明は永久重力のくびきを背負うという表明である。
無意識 (原主体) は鏡 (他者) から反射して物象化される。
<del title="別項へ移動の為。">正確に言うと物象化は習慣的なものでなくとも良い。只納得する事に因り凝結すれば其れは達成される。</del>
忘却は永遠である。
永劫囘歸は<ruby><rb>起源</rb><rt>アルケー</rt></ruby>と<ruby><rb>終末</rb><rt>テロス</rt></ruby>の螺旋である。又、問い・答えの<ruby><rb>関係</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>でもある。兎も角螺旋である。 本質とはバベル以前の言語であり、抑々遡行に因って漸近的にしか展望出来ない。だから、本質<ins> (表層) </ins>論は方法としてしか成り立たないし、撒種としての本質<ins> (仮面) </ins>である。 祈る事で重力から恩寵され、我々は怪物になる。
引用は代弁である。
振り仮名は言語の背景である。其れは階層に二重化された言語を表す。
流浪する文章は著者の永久重力から解放されている。なんとなれば読者の永久重力に捕えられるからだ。
他者の持つ重力は想定しえない。(一度にありえる永久重力はただ一つだけだ。)
人は關係の絕對性 (因縁) と言う不可避を生きる、絶対の尊厳 (人権) を持つ固有者<ins>独異者</ins>である。其れは正義の名に於いて本質的に提唱される。 自覚という応答<ins> (妄想) </ins>が責任である。其れは正義への応答である。
自覚するとは他者の對象 a を掴み出す事だ。何故なら自我とは對象 a から仮構されるからだ。それは永久重力の自覚でもある。 宗教の条件は神への祈りと啓示である。然して世界は必然の啓示である。
本質論とは発生論である。何故なら其れは遡行し、対象<ins>物象</ins>を構成し直すからである。
「喰う」事は重力として我々を捕える。其れは欲動の初めである。
「神を畏れる事は知識の初めである。」(「旧約聖書、箴言」より)
思考に於いて対象化<ins> (物象化) </ins>は絶対に逃れられない。寧ろ思考とは対象化を完遂しようとする事である。
物と物との関係が有るのではない、只永久重力と永劫囘歸との対世界関係が有るのみである。 妥当論では本質論に対して絶対に反論出来ない。
物象化は永劫囘歸と永久重力との対世界関係(労働=非対称的行為)に依る。 何故此ういう言い方をしなければならないかと言うと、其れはバベルの塔 (最初の根拠 = 最後の砦) 以前の物語だからである。
具体的な「他の人間」なるものは、其の身体に依る。
思考に於いて対象化が不可避というのは、物象化が不可避だという事と同義だ。だから我々は本質論として遡行 (発生論) をする。 倫理学は権力線 (善 / 悪) に依るが、正義に於いては倫理は不可能となる。正義は本質的である。
貨幣量に依る価値と善悪の価値は全く異なる。何故なら貨幣価値は其れのみでは分断線を作るだけだからである。
俯瞰して永久重力から飛ぶ事は出来ないが、<ruby><rb>心像</rb><rt>イメージ</rt></ruby>に於いて俯瞰する事は出来る。心像と言う時点で永久重力から離れる事を放棄しているからである。
世界は、ほら、此んなにも面白い。
<ins>「誰も蛙を狂ってるなんて言わないのにねぇ」(甲田学人『Missing』より)</ins>
本質論が妥当論に出会った時、本質論は妥当論の発生論を行う。又、本質論は自らをも解体する。其れが思考の原理への思考である。
哲学教育は可能であるが、思想教育は不可能である。
身体の原像は死体である。
段階を遡行するとは非連続の連続を隠喩するという事である。
<ruby><rb><知識人/rb><rt>インテリゲンチャ</rt></ruby>志向の反動であるが<ins>は啓蒙するが</ins>、不可避へ遡行する為には衆生の原像を思想に導入しなければならない、それも自覚的に。則ち衆生の原像は不可避である。 他者性は不可避である、則ち隠喩は常に既に必ず与えられている。此れは不可避という無根拠しかないという不可避 (確実性) の宣言である。 哲学は啓蒙するが、思想は救済する。哲学から不可避は絶対に出て来ないが、思想は不可避 (徹底)に行き着かざるを得ない。<del title="別項に移動の為。">だから思想は必ず絡め手になる。</del> 思想は必ず絡め手になる。
博覧会的な店開きの論理は本質的ではない。則ち、取り尽し法は成り立たない。
思想体系というのは精神病者の妄想と何ら変わる所は無い。
主体は欲望の一の線に沿って出産され、對象 a による自覚を以って完成する。だから<ruby><rb>世界</rb><rt>ワタシ</rt></ruby>は撒種な模倣である、詰り空 (因縁) である。 方法としては我々は遡行展開する――遡行展開とは螺旋に沿う事である。全てが永劫囘歸に沿うが誰も其れを知らない、勿論此の文章自身も。 或る物と或る物が同じ<ruby><rb>範疇</rb><rt>カテゴリー</rt></ruby>にあると言う時、其れ等は第三項に於いて類比的類似性を持つのである。
第三項 (或いは周縁) は排除 (<ruby><rb>棄却</rb><rt>アブジェクト</rt></ruby>) され限定されるのであるが、<ruby><rb>場処</rb><rt>コーラー</rt></ruby>として<ruby><rb>道化</rb><rt>パルコマス</rt></ruby>的に限定し、活性若しくは脱骨する。