「覺える事が少ない」は simple とは關係無い
私は「simple」と「easy」と云ふ語は殆どの場合に、下記の記事で定義した意味で言ってゐる。少なくとも下記の記事では、下記の記事で定義した意味で書いてゐる。
simple とは、1 つのものが 1 つの槪念に對應する事。complected とは、1 つのものが複數の槪念に對應する事。
easy とは、自分に親近である事。hard とは、自分から疎遠である事。
上記の記事に對する反應に、「simple なもので構成されてゐるのは覺える事が少ないからよい」と云ふものが見られた。これは「simple」を上記の記事とは別の意味で言ってゐるから、上記の記事に對する反應としては誤りであると言はねばならない (上記の記事に對する反應としてでなければ別に構はない)。
上記の記事でも參照した Rich Hickey さんの別の講演 Simplicity Matters では、complected なものの例として函數の引數 (positional arguments) を擧げてゐる。函數の引數は、何番目に data を置くかと言ふ位置と、data の意味とを complect してゐると述べてゐる。對應するものは名前附き引數になる。tuple も同じ事で、tuple に對應するものは map になる。 覺えるものが少ない言語は、1 つのものを多くの事に使へるのだと思ふ。1 つのものを多くの事に使ふなら、1 つのものが多くの槪念に對應してゐるから simple ではない。
simple/complected か easy/hard かは關心が異なる。simple/complected はものと槪念の關係に關心が有る。easy/hard は人と對象の關係に關心が有る。simple なものだけで構成されてゐる言語は考へ難いし、あらゆる人にとって easy な言語も考へ難い。
自分に親近してゐれば新たに覺える事は少なからうから easy であらう。覺える事が少ないと發言される時、それは「何某に親しんでゐれば」と云ふ前提が置かれてゐる樣に見える。
上記の記事に引いた講演は「simple」の語源から辿った定義に基附くが、「simple」は多くの人にとって hard であるらしく、easy に差異を加へた槪念として使はれるのが、よく見掛ける場面である。なら「easy」と言へばよいではないかと思ふのだが。