20230306
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ヨーロッパにてバイイングトリップで撮り下ろした写真のアートブック”1 Rue Erik Satie"。
DAMMITのディレクターのNaoto Yukiが、ヨーロッパ買い付け旅の中で実際に体験した出来事を写真に記録した作品。
本屋を始めるのに資格は要りません。古書を扱う際には「古物商」が必要ですが、新刊であれば誰でもいつでもできます。いまでは少部数から本を仕入れることができる窓口がいくつもあるので、自分の庭で、玄関先で、お店の隅っこで、好きな本を並べて販売できます。みんなやってみるといいと思いますよ
街に大型書店が一つドーンとあるのも大事ですが、街の中に「料理に詳しい人の本棚」「音楽好きな人の本棚」「旅好きの本棚」と小さい専門書店がたくさんあるというのも面白い。それこそ「インドのことなら任せなさい」みたいなおじさんが街にいるはず。そういう人を街に紹介する場にもなる
ちょいとバズってますので宣伝を。
「機能と祈り」 → 代替可能性のことらしい
澁澤さんのお話を聞いている中で私の頭に一つのキーワードが浮かんだ。
それが「機能と祈り」というものだ。
これは、哲学者の内山節さんが著作のどこかで書いていた表現だった。
内山節さんは「機能と祈り」をこんな説明で書いていたと記憶している。子供に「お父さんはどんな人?」と尋ねたとする、そこで子供が「お父さんは働いて給料を持ってきてくれる人」と答えた時、これは父親の「機能」を言ってるに過ぎない。一方で「お父さんと休みの日にキャッチボールするのが好き」と答えた時、これは「祈り」の話をしている。という感じだ。
ここから先は、私の解釈が入る。「機能」で語られる部分というのは、代替可能、入れ替え可能な領域だ。お父さんの例で言えば「給料を持ってくる」というのは、そのお父さんである必要性がなく、何なら年収が倍のお父さんが別にいれば「そっちのお父さんの方がいいじゃん」ということになる。つまり、代替可能なお父さんだ。
しかし「休みの日にキャッチボールをするのが好き」と語られるお父さんは「そのお父さん」じゃなければダメである。もっと野球の上手いお父さんが別にいても、うちのお父さんでなければダメなはずだ。「祈り」で語られる領域は、代替不可能なものだ。
「機能」は理解できるけど、どういう文脈で「祈り」という言葉を選んだのか知りたい
さらに、人間が生きていく社会では「祈り」というのもとても重要な一面を持っています。例えば家族の場合、「お金を持ってくるお父さん」「家事をやるお母さん」のような機能面だけでつながっている家族は実は相当もろい家族で、機能が果たせなくなった瞬間にたちまち崩壊する可能性が出てきます。一方、「子どもが無事大人になってくれますように」「お父さんお母さん元気でいてね」的な「祈り」でつながっている家族というのは、危機に直面しても、何とか乗り切っていける強さがある。つまり、人間の結び合う世界の中には、宗教や信仰とは違う、どこか祈りのようなものがあるのです。
なるほど そういうことか
けどぶっちゃけ危うい言葉だよな うまく取り入れて誘導扇動するようなこともあるので 「絆」とか