20230227
https://brutus.jp/wp-content/uploads/2022/09/54d-1536x864.jpg
vol.201 : Distorted Sense of Selfie
スマートフォン登場以降の写真文化について詳述されている『新写真論』という本で、鏡は「自意識」や「内省」を発達させ、カメラは「主体」といった観念の発明に繋がったと紹介されている。そうだとしたら、何がこの「歪んだ自画像」という固定的な自己イメージへの反逆とも言えるような表現形式を生んだのだろうか。上述のセルフポートレイトの背景に滲んで見える「自己を確定させたくない」という欲求は、仕事で言えば副業、SNSで言えばサブ垢(そういえば「裏垢」から「サブ垢」という、否定的なニュアンスが消えた言葉の遷移はとても不思議だ)など多くの場面で見られる現代的特徴のように思う。流体化し、分散化する個人のあり方が、こうした、自己イメージをあえてぼかしにかかるようなセルフポートレートの表現形式につながっているのかも知れない。
ペルソナを複数持つことが肯定的かつノーマルになりつつある中、顔を出して表現活動をし、固定的な自己イメージを持ち続けることはあまりポジティブな意味を持たなくなっている。私たちは自分の顔をどのように扱えば良いのだろうか、どのように他者に見せれば良いのだろうか、ということをこれからもっとシリアスに考えていかないといけなくなるだろう。未来のポートレートは、さらに歪みを増し、ローファイ(低解像度)なものになっていくのだろうか。あるいは自分の顔など一切出さないことがクールになっていくのかも知れない。
ここでも非効率・不効率を積極的にチョイスする流れが
この本を書く前から、あなたはブラック・アイビー・スタイルの顔になっているような気がします。現在において、ほかにこの美学を表現している人たちはいますか?例えば、タイラー・ザ・クリエイターはその一員だと見なせますか?
タイラーは間違いなくそうでしょう。ただ、アイビースタイルにおいて、彼のようにティファニーカラーのマニキュアを爪に塗ることは、どんな場合においてもあり得ません。だから、タイラーはタイラーなのです。
しかし、クラシックを自分流に解釈することは、ブラック・アイビーのエートスといえるでしょう。また、フランク・オーシャンはあらゆるファッションを取り入れますが、その根底にもシンプルでクラシックなものを自分なりにアレンジするという考え方がある。それは、ブラック・アイビーの「自分の着る服は自分で決める」という考えに連なるものです。
上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)とは、上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた、古典期以降には存在しない仮名の使いわけのことである。
英語ではProto-Japaneseとよばれることもあり、かつては共通日本語、原始日本語、といった呼ばれ方をすることもあった。