P.352 第9章 デカルトを超えて 科学的観察の新しい方法
1/共有体験への呼びかけ
少なくともみんなが納得するような方法では言えないわたし
現代の私たちの不完全で生命感をもたない見方
ってなんだろう
実験できないとだめ、みたいな考え方
感情や感覚的にしか説明できないものはだめだよね、みたいな考え方
この前のページを見るとより良く分かるかも。このページだけで理解するなら上記くらいのざっくりとした見方
デカルト的手法は客観的なイメージに到達するためには共有可能で共有された結果を与えてくれるような観察方法を見つけなければならず、これまでの手慣れた方法は観察と結果を共有するための基礎とはならない チームの成長の評価とか、教育の効果とか、客観性と再現性で悩んでいるのでどう言う結論に至るのか気になる
デカルト的な考え方っていのは「分断」ってことなんだろうか?
ありのままの生命の現象を理解しようとする時の「ありのまま」ってところがキーワードな気がした
どちらが私自身を映し出したものであるか
あんまり考えたことなかった
私達の内なる感覚の見方がや多かれ少なかれいろいろな芸術作品がわたしたちの内面的な幸福感に影響を及ぼすと言う事実
この本で示したものは、客観的なものです。---つまり〜
ちょっと何言ってるか分からない(生命とかは個人個人バラバラに持っている見方ではないってことかな?)
センターの「場」
2/生命に関するより一般的なテスト
AとBどちらのほうがより〜
3/測定技術
「客観的」手法は通用しません。実用的結果を得るため、私たちは私たち自身を計測の器具としなければなりません。
たしかにこれは意識して訓練しないとすっと入っていけなそう
というくらいには客観的手法が染み付いちゃってる(それが必ずしもよいことだという先入観)気がする
結果が似通ったかどうかで判断すると言うこと?
2022/7/1 追加
(関係ありそうなページ)
(この概要) p16: 序章 5/デカルト
(建築での実例) p.18 序章 6/建築の芸術における機械的思考の破壊的インパクト
デカルト的手法は、限定的かつ機械主義的にとらえ得るような現象の、限られた出来事を菅申することなのですが…
「客観的に正しい」とか言いたい時は、特定の領域に限定して再現可能にしたくなるのは分かる気がする
デカルトの機械論は、物質と生命をわけるところからはじまっているので、その点が限定的なのでしょうね
あるものの全体性や生命を観察する場合、私自身の主体性を抜きにした見方をしようとはしませんでした
「客観的に」って言った時に「主観」や「主体性」はいらないと思っちゃうなぁ
デカルトは物質と生命をわけるて、物質に着目しようとして客観性を獲得しようとした感じですよね
ただ、「客観性」ということば自体がデカルト的なので「再現性」という言葉とか
よく分からん!デカルト的な観察方法では空間の様々な部分ごとに異なる生命の強弱がある、という事実を見ることはできない、とかはなんとなく分かりますが、この章で言わんとしてることが掴めない…
観察は世界の仕組みについて単に外部的な現実に焦点を当てるものでした、しかし、私の方法では感覚のような内面の現実にも同様に焦点を当てるものなのです
人の感覚はある程度一緒だから、人の内面は他の人と違うとはいえ、大体は同じことを思うはずだから経験的だと言える、って話をしてるんですかね?
序章のデカルト関連読み直すとわかりやすそう!
お、ありがとうございます1
実践上は、「デカルト臭」を嗅ぎ分けられるのが重要そう。
あ、これ、デカルト的発想だな!臭いがするな、というのが分かってくると良さそう
今週もくる前に動画みてたのですが
デカルト臭がする
https://www.youtube.com/watch?v=gxy_T1KL-Ks
デカルト臭がしない
https://www.youtube.com/watch?v=YyJLmJuyp8Q
デカルト臭がしない方はやっぱりパタンがあるなぁという気がします
自分はうまく言えないけど
アレクはこれをちゃんと説明しようとしたのが凄い!!
そう考えるとパタンは秩序では無いというのが実感を伴いますね。
DS(デカルト臭)