『草枕』
「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
という有名な文章が冒頭に出て来て、何となく、げんなりしている。
夏目漱石『草枕』を読了。
読みやすい小説ではなかった。この小説を楽々と読み進めるためには、幼少時から漢籍の素読で培ったような文人の教養が必要だと思われるのだが、そんなものは私には無いからだ。
ただし、この小説を理解し楽しむために文人の教養が必要かと言うと、多分それも違うだろう。
漱石は、またもやこの小説で実験を行っていて、それも結構危険な実験なので、馬鹿を遠ざけておくための防塁として文人の教養をあっちこっちにばら撒いたのではないかと思う。
あるいは、危険を冒す前に確保すべき安全な足場として、そういう慣れ親しんだ世界を展開しておく必要があったのかも知れない。
非人情。不人情ではなくて。非人情を追求する実験。
もう一度最初からゆっくりと読み直してみたい気もするが、もう良いやという気もする。
夏目漱石の『草枕』で面白いと思ったのは、おかしな言い方になるかも知れないが、「非人情」な男と「非人情」な女の間で、世間的な恋愛ではない何らかの深い交流が有り得るか、という事を考えて、登場人物を動かして実験しているみたいに見えるところだった。
癇癪の種である愚劣な世間に対抗する手段として、漱石は東洋の隠者の歴史に通じる遁世(非人情)という方法を考えてみたのが『草枕』なんだろうと思う。そして、それに漱石自身が満足できないと結論づけたであろうことも、小説の最後を読めば推測できる。非人情と言っても、不人情な冷酷さとどう違うんだ、と。
それにしても、漱石の恋愛に対する憧れはすごいね。どんな難問も一心不乱の恋愛の前にはどうでもよくなる、と思っている節がある。
それと、自然の事物に対する解像度の高い視線も特徴的だろうな。
昔、ある文学青年のガリ版刷りの小説を読んで「自然描写は良いね、でも、その他は何か、、、」と言ったら、自身文学青年である友人が「でしょ?彼、自然描写は上手いんだ。でも小説は人間のことを書かなきゃね」と言った。いや、そんな事もなかろう、と思ったけれど、うまく説明は出来なかった。