『坑夫』
これは面白かった。
中ぐらいの読みやすさ(読みにくさ)である。(そればっかり言っている)
前作の『虞美人草』が、「富貴」の神と「真面目」の神のどちらに付き随うのかということをテーマとした小説であったのに対して、「真面目」の神に操を立てて「富貴」の神に叛旗を翻したらどんなものかということをテーマにしている。
富貴の家に生まれた主人公の青年は、彼に思いを寄せる女性がいるにもかかわらず、別の不真面目な女性に魅了されてしまって、その三角関係を収拾出来なくなってしまっている。そのあたりは『虞美人草』の小野さんと似たような状況であると推察できる。青年は自らの真面目を貫く方法として、発作的に、富貴の世界からの遁走を試みる。そして、疲れた頭で考えるのをやめて成り行きに身を任せた結果、当時の最底辺労働者である坑夫の世界に身を投じることになる。もう、それで良いわ。緩慢な自殺じゃ、と。
Wiki によると、漱石は荒井某なる実在の人間の体験談に材を得て『坑夫』を書いたというが、なるほどと思う。
鉱山と労働者の描写が細部にわたって非常にリアルである。青年は最初の日に鉱山を案内されるのだが、最下層の採掘現場まで降りていく描写の怖さは圧巻だ。南京虫に咬まれて寝るどころの騒ぎでは無くなるところも、顔をしかめずには読めない。
主人公は、「坑夫に堕落する」など、たびたび「堕落」という言葉を使う。
もちろん、漱石は最底辺労働者の境遇に身を堕とすことがそのまま人格の堕落を意味するものでないことは承知している。それは不遇ではあるが、不義ではない。
しかし、坑夫として生きる労働者の大半は、人間だか獣だか分らないような不潔で獰猛な無名の群衆として描かれている。そして彼らは飯場の前を「ジャンボー」と呼ばれる葬式の行列が通ると、重病で寝ている同僚を無理に起して「面白いから観ろ」と強要して面白がるような人間である。粗っぽく言えば、人格的にも堕落した人間たちである。そのあたりの描写は容赦ない。
『坑夫』の主人公とそれなりに交渉を持つ人物については、漱石は名前を与え、言葉を記して心の動きを描写している。
狡猾な利己心が透けて見える場合であっても、言葉を交せるだけで、人はどれほど安心できることかと再認識する。
漱石は、小説の終盤近くにいたって、坑夫として真面目を貫く人物を登場させる。うーん、やっぱり遂に出て来たか、という感じだ。この小説の構造からして、そういう登場人物は不可欠だ。
もう一人、飯場の長が性格円満な人格者として描かれており、プロットの進行においてはより重要な役割を担っているが、彼は富貴な立場の人間であるから、この小説においては脇役しか果たすことが出来ない。どうしても、不遇にも拘わらず義を貫く、真面目な坑夫が必要だ。
しかし、漱石は義を貫く坑夫をあまり活躍させないまま、バタバタと話を端折るようにして、小説を書き終わる。唐突な感じ? いや、それがそうではなく、書きたいことは全部書いたから、もう良いよな、という自然な感じだ。