『我が輩は猫である』最終の第11章
夏目漱石『我が輩は猫である』を一通り読み終ったのだが、最終の第11章だけが少し他と異っている印象がある。
読者を面白がらせることよりも、自分自身を面白がらせることを目的に書いたような感じがする。
猫はほとんど語らず、最後にビールで酔っ払い、水甕に落ちて溺死してしまう。
主として、苦沙弥、迷亭、寒月、東風、独仙という五人の会話で話が進む。漱石は、それぞれに性格の異なるこの五人を用いて、自分のための実験を行ったのではないか。
第10章まででも、猫や登場人物に語らせることによって、自分の中にある時に矛盾を含んだ様々な考えを極端な形で言ってみるという手法が見られるが、それはまだ読者を楽しませるという目的に奉仕しており、話の内容に分りにくい所は無い。漱石は最終章にいたってこの仕組みを使い倒してみようと考えたのではないか。
第一に、寒月による長ったらしいバイオリンの話。無意味に長くて、読者はもちろん、作中の苦沙弥先生すら匙を投げるほど面白くない。漱石はその面白無さ加減を面白がって、これでもかとばかり長ったらしくしている。
『我が輩は猫である』最終第11章でもう一つ面白いのは、「個人の自覚心」をめぐって展開される苦沙弥、迷亭、寒月、東風、独仙という五人の会話だろう。
五人それぞれの役割分担に従って述べるのは、常識的かつ良識的なことであったり、面白半分の極論(「将来は学校で倫理のかわりに自殺学を教える」「未来では結婚が不可能になる」)であったり、伝統的な東洋の智恵であったり、芸術・恋愛の至上主義であったりするのだが、話のテーマは「個人の自覚心」(漱石が後に言う「個人主義」か)とそれが伝統的な社会に生きる人間にもたらす生き辛さである。
漱石は五人を使って思考実験をするのだが、もちろん結論は出ない。
ふと思うのは、漱石の時代に仮想現実やら人工知能(AI)があればどうだったろう、ということだ。漱石は、あんなもの、と言って一笑に付して済ましただろうか。絶対にそんなことは無いと思う。必ずや考慮すべき重大な要素として取り上げた筈である。