社会の歯車
社会の歯車ということば(あまり好きではない)は、歯車の集合が社会であり、例えるなら歯車がファイルで社会がフォルダのように、社会が歯車を内包しているイメージなのではないかと思うが、実際のところそういう「社会」などはどこにもなく、歯車自身が社会である。社会を変えるとは、社会を変えてくれる誰かの登場を待つことではなく、他人の行動の変容を促すために大声で街を練り歩くことでもなく、自分の行動を選択することにほかならない。そんなふうに考えると、「社会」はコントロールできるように思えてくる。
これは会社と社員の関係にもあてはまって、わたしたちを包み込む「会社」などもどこにもなく、俺が会社であり、お前も会社である。便宜上は社長が会社の代表ということになっているが、概念的には俺もお前も会社の代表だ。なにかの組織に所属するということは、組織がやっていることに対するフォロワーシップであり、フォロワーシップを発揮するにはリーダーシップが必要なのだ。 社会の話に戻ると、理論上はそうなのだけど、その割には自分の意思が社会へ反映されていないような気がする。わたしと社会が乖離している。なぜ、そのように感じるのだろう。じゃあ、100パーセントわたしが理想とする社会が実現するとしたら、どういうものなのだろう。そう考えると、あまりにも知識が足りないことに気づく。知らないものを知ろうとすることから、わたしと社会は近づいていく。
人も組織も「歯車」になることの重要性
会社一つひとつも社会における歯車になれないと、その会社の価値はどんどん下がってしまう。その意味で言うと、「歯車」は決して悪い言葉ではない。一つひとつの立場における歯車になっていくことが、社会でしっかり評価される存在になることにつながると思います。