応答しないあなたは、一体なんのためにそこにいるのか?
チームで仕事するとき、みんなもう少し自分の存在、自分のリアクションがチームに与える影響を自覚した方がいい。
例えばミーティングでブレストしているとき、議論が前に進むのは、あるときふと場に出されたアイデアに対して、誰かが"それいいですね"って言った瞬間である。アイデアを出したとき、その人にはふつう、確信なんてほとんどない。僕なんか自分の意見に自信なんかなくて(大体みんなそうなのだ)、言ってみて、まわりの反応を見て、あ、なんか良さそうだ…と思ったときにやっと前に進むことができる。みんな、自信なんてないのだ。だからアイデアは、場に出されたときはまだ、波際の砂のお城のようにやわらかである。 しかし、あるアイデアに対して、それいいね、と声をもらったとき。いい顔が見えたとき。姿勢が前のめりになってくるとき。そのときとあるアイデアは、はじめて光るのだ、形になる可能性を見せるのだ。
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逆に言えば、議論において黙って静かにしていることは、実は透明になることではない。それは黙っていようがなんだろうが、「そのアイデアに賛同しません」という意味である、「そのアイデアはそこまでおもしろくないですね」と発言しているのと全く同じ意味である。だから、黙って静かにしていることは、それそのものが、議論を後ろに引っ張ることなのだ。
これに気づいていない人が多すぎる。あるいは、気づいてもまだ意図的にそうしているのだとしたら、それは相当な重罪である。
もちろん、普通に生きていると、このことに気づくことはあまり簡単ではないのかもしれない。〈合理的な〉議論は(そんなものがこの世にあるのだとすれば)、正解があり、それに至るためのロジックを検討する営みであるがゆえ、そこには感情だとかノリだとかグルーヴみたいなものは必要ないのかもしれない。そして、そういう議論に慣れすぎてしまうと、頭のいい人、わかってる人に任せとけばいいや、と思って透明になることに慣れてしまう人がいるのかもしれない。
でも、そんな議論などないのだ。アイディア出しのブレストはもちろんのこと、〈合理的な〉案を検討するための会議でさえ、そこにはいつだって、「別の案」でいく可能性が、常にある。では何が「この案でいこう!」と合意するための決定打になるか?それは、あなたの頷きである。このことに本当に気づいたほうがいい。いいと思ったなら、頷くとか、前のめりになるとか、いいですねとか、slackでのスタンプでもいいし、とにかく反応をしてほしい。アイデアなんか最悪いらないから、いいと思ったアイデアにとにかく前向きに反応する、このことを大事にしてほしい。反応があるかないかで、物事が生まれるかどうか決まってしまう、反応することはそれくらい重要だし、逆にでもそれくらい僕たちは簡単にチームに貢献することができる。
そして、この「反応をする」ことそのものが、アイデアを出せない私自身の練習でもあるのだと僕は思っている。反応することは、その場に出されたアイデアに対し、それがいいと思うのか、よくないと思うのか、それを判断しつづけるということだ。それはもちろん、はじめは直感でもいいのかもしれない。「なんでいいと思ったの?」「あいや、なんとなくなんですけど…」こうして問われ続けるなかで、その「なんとなく」が、自分の好みだったり、社会的な潮流だったり、そうしたものたちに影響されていることに気づく、言葉にできるようになってくるのだ。それは自分の意志、自分の意見、自分のアイデアを持つための、日々の小さな訓練である。
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市川力さんと伊庭崇さんはこうして、まるで自分ごとのようにして、いいね、それやろうよとおもしろがる人のことを「ジェネレーター」と呼ぶ。それはファシリテーター、つまり、外側からいい感じに議論が進行するように支える人とは違う(これはファシリテーターがいらないという意味では全くない)。自分のことのように「いいね!」とおもしろがってくれる人、それがジェネレーターである。物事を生み出すのは、企画や編集だけじゃない。こうしておもしろがる人こそ、「生み出す人 generator」なのだ。チームで仕事をするとき、そのことを忘れないでいて欲しい。
ティム・インゴルドは、私たちの生とは「応答し続けること」であると述べた。完全独立した私自身から、美しい理想的なアイデアが、ある日突然浮かびあがってくるのではない。生きることとは、他のものたちの生に応答することそのものなのだ。そしてその応答は、また翻って、他のものたちの生をいきいきとしたものにする。
だとすれば、応答しないあなたは、一体なんのためにそこにいるのか?
本当にその通りだと思う。