多様性
ぜんぶ肯定する。肯定できないのだとしたら想像力が足りないからで、それは人はみんな性善説であるという前提に立っているからなのだが、知らないから怖くて、怖いから認められなくて、やがて怒りになるのだとしたら、すべては知ることからはじまる。知らなくても、知ろうとする姿勢がメッセージになる。多様性を受け入れるとは、少数派に配慮することではなく、集団をふたつに分けて考えるのをやめることだ。グラデーションを構成する無数の点であるぼくたちが、きみが知らないことをぼくは知っているという陰謀論に対抗するには、結局のところ、どこまでもわからないきみのことを、ぼくは知りたいよと思いつづけるしかないのではないか。 言語(英語)と歴史を学ぶ。
いっしょに運動(スポーツ)をする。
多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。