在野研究
imdependent scholar
役に立つ研究とは、みたいな話だがまとまらない
でも後半、役に立たなくていいという話は、かつて訳したフレクスナー『役立たずな知識の有用性』なんかでも言われていて、大いに賛成する一方で、ぼくは百パーセント額面通りに受け取るべきではないと思っている。役に立たないことなんていくらでもあるんだけれど、その中でこの役に立たない活動をなぜ特別扱いして「学問」なんて言わねばならないのか? ましてそれを、場合によっては公共的に支援しなくてはならないのか? 知らんがな、とうそぶくこともできるけれど、でもぼくは、それはどこかで問われるとは思う。 さらに、役に立たなくていいんだ、と胸をはるのは結構な一方で、やる側として多少の知見なり見識なりを出せずに、何の研究、何の知識、何の学問なんですか、というのはある。そんなことを思ったのは、イギリスにジェームズ・ボンド研究の国際査読ジャーナルってものがあるのを知って、笑ってしまったからだ。
もちろん日本も在野のガンダム研究だのウルトラマンの怪獣研究だのは大量にある。いずれも何の役にも立たない。それをみんなが真面目な顔で楽しくやるのはとてもいいことなんだけれど、やっぱそれが、単純なウンチクとトリビアの集積合戦から、もう一段高い「研究」と呼べるような抽象度に移行する水準というのはあると思うんだ。 そして「役にたつ」というのはそんな実用的な話である必要さえないよ。往々にして「役に立つ」というと、それはかなり矮小化されて「お金儲けに使える」という意味に解釈されることが多い。あるいは、何か技術的な応用があるとか。でも実際にはそうじゃない。それは、何らかの社会的な関心/興味に応えることであるはずだし、またさらには新しい社会的な関心/興味を作り出すことであるはずだ。