円城塔
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SFと純文学
――先生はSFの分野と純文学の分野にまたがって活躍していらっしゃいますが、先生ご自身のなかで純文学とSFをわける境界はあるのでしょうか? 円城塔先生(以下、円城)
SFと純文学にまたがって活動しているのは、たまたまそうなってしまっただけで成り行きなんですよ、完全に。両者の間に違いはあります。まず使ってよい用語が違う。読み手が全然違うので、たとえばSFのほうで「DNA」って書くのと、純文のほうで「DNA」って書くのとでは読者の受け取り方が違います。書かなきゃいけない説明の量も違っていて、SFの読者にとってDNAはもう細かな説明は要らない気はするんですけれども、たぶん純文では「DNA」とだけ書くだけじゃなくて、具体的にDNAがどういうものでなぜその話をするのかという説明も書かないといけない。
いわゆる「文学的な」と言ったときに、SFは科学技術が特化されて強くなってしまっているわりに社会はすごく普通なことが多いんですよ。すごいメカとかは出てくるんですけど。社会はすごく普通なんです。技術が社会に「入るだけ」のことが多いです。純文系のほうというかまあ本当のリアルワールドは、かなり突拍子もないようなことが起きますよね。例えば純文学でアウシュビッツの話はできますが、SFではたぶんできない。「あるところに銀河帝国があって強制収容所で何々星人が虐殺されていました」なんて書いたら怒られる。まじめにやっているのかと。フィクションは別になんでも好きに書いていい場所ではないわけです。何をどう訴えかけたいか、もしくは自分は何に興味があるかによって、作品を通してアクセスする対象が全然違うんですね。
SFの対象
――生活の中にこれまでは空想の産物と思われていたようなテクノロジーが増え、フィクションの上にいたはずのSF的モチーフが拡散してしまっていく中で、SFの着眼点はどこにあるとお考えでしょうか?
円城
実際見失っている面はありますね。SFはと考える羽目になった一定のレベル以上の人たちはみんな同じ問題にぶつかっていて、みんな困っているという状態だと思うんですけれども。僕は今のところ認知系とソーシャル系と宗教系に触れるしかないと思っています。科学技術が今後なんらかの形で認知系、社会系、あるいは宗教系の問題に関わっていくというのは、たぶん今はもう既定事項と見た方がいい。ただ、それを何の形で表現するかというのはみんな試行錯誤していて。日本のSFだと、「ロボットはいかに知性を持つか」とかですね。そういう「つくられたもの」がどう知性を持つか、どのような認知系の問題を抱えるか、というのが日本人は好きなんですよ。
アメリカ人は、ゾンビが好きなんです。すごく。ゾンビも、なんだかよくわからないものだけれど、認知的な問題を抱えますし、生命とは何かという問題ともリンクするので、同じ問題につながるとは思います。現状はみんなそこに殺到している。 ――「人間じゃないものをどう考えるか」ということですか?
円城
何を人間なり生命と認めるか、その扱いをどうするか、ということですね。
アメリカは移民という自分たちのコミュニティと異なる他者とつねに向き合う必要があるので、けっこう切実な問題だったりするんです。社会問題に繋がる話でもある。コミュニケーションにおいてメールなど電子メディアの割合が深くなると、そこでも半ば人格みたいなものが発生するので、その扱いをどうするのかということも重要になるんでしょう。 ただ、科学技術は認知している人としていない人の差がとても大きいので、そこはたぶんSFだけでなく普通の小説でもつながる問題だと思います。アメリカだとリチャード・パワーズ(*3) がすごい。最先端の技術、あるいはそこから一歩だけでているような技術を取り込みながら普通の小説を書いている。これはかなり大変なことで、誰が読むと楽しいのかがほぼわからない。これがたぶんいちばんきわどいところかも知れません。今だと携帯とPCはすごいですね。タブレットがこんなに流行るとは。ただ情報機器は自分の認識系にある程度負荷をかけないと認識できない。
――例えばAmazonにおける商品のサジェスチョンみたいなものも人格になってしまうんでしょうか?
円城
なんか人格っぽいものが見えてきましたよね。昔はかなりアホでしたけど。最近はかなり頑張っている。これは俺のことをよく知った誰かが選んでいるんじゃないかって思ったり。だから、人間かそうでないかわからなくなったらどうするんでしょうね?
生まれたときからある程度人格っぽいものに接しているとそっちのほうが本当の人間よりも人間っぽくみえるようになるのか、それともそれはSFっぽい発想でそんなことが実際には起きないのか(今の段階では)よくわからない。
人間の認知はすごく強固だけど、想像もつかない事態が起こってしまったときにその認知はすごく揺さぶられてしまう。だからそこで起こるだろうことを小説である程度書いておくことは大事だと思うんです。起こってしまった後で「そんなこと思いもしなかった」というのはかなり間抜けなので、誰かが考えておいたほうがいい。なんか変なことが(現実社会で)起これば面白いなと思う一方で、もし現実に起きてしまったときのことを考えると素朴に不安ですよね。
それから不安なのはいつまでみんな元気なのかということですね。肥大したテクノロジーを維持するモチベーションがいつまで続くのだろうかって。なんかもうみんな原発がどうでもよくなっていますよね。えっ、て思うじゃないですか。だってまだ事態が終息してすらいないのに。 世界人口も2050年くらいから減るという予測もありますから維持管理の人員が足りなくなっていくのはみえている。でもみんなそういうことを真剣に考える根気がなくなってきている。どうにかなるんだろうという気だるさが強い。これからの日本の人口を考えたときに原発やインフラを維持できるのかって考えたりはしますね。
――それこそロストテクノロジーというかSF的な感じですよね。
円城
そういう感じはしますよね。原発自体ももう物珍しいものではないので、原理も含めて関心は薄れていく。そうするともう維持できないだろって感じはします。そういう不安は若干ありますよね。
それから水とかネットとか。ネットが維持できているのが僕には信じられなくて、そういうものの集積である「都市」とかいうのが良く分からない。だから、そういうインフラを享受することを基本的人権に数えるべきだと思ってはいるんですけど、そんな強固なものじゃないだろうと。どうして維持できているのか。携帯電話のネットワークもそうですよね。これを所与のものと思っていいのか。まあ、なんか、誰かが頑張らないと維持できないので。それでどうもなんか、そんなに頑張りきれないというのが徐々に明らかになってきている気はします。