『花粉症と人類』
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調べてみると、日本だけでなく、世界各国に花粉カレンダーなるものが存在しているとわかる。日本や欧米など温帯の国なら、年明けから春にかけてヘーゼルナッツ、スギ、ヒノキ、ヤナギ、ポプラ、ブナ、シラカバなどの樹木花粉、初夏から盛夏にかけてイネ科の牧草・穀物花粉、晩夏から晩秋にかけてブタクサやヨモギなどのキク科の雑草花粉が、ブリザードのように空中を飛びかける。地中海地方の南仏やイタリアならイトスギ、イスラエルやトルコならオリーブ、中東のクウェートやサウジアラビアならナツメヤシやプロソピス、インドや東南アジアならサトウキビやココナッツ、中国(特に南京)やイランならプラタナスなど、ご当地の花粉症にも例を欠かない。なんと、ほとんど植物が生えない南極でも花粉が飛ぶことがあるという。 風媒花、虫媒花という日本語はそっけない響きがするのであるが、もともとのギリシャ語では、それぞれアネモフィリア、エントモフィリアといい、風を愛する花、虫を愛する花という花粉愛に満ちた優雅な言い回しになっている。花粉症の原因植物がほぼ風媒花であることを最初に指摘したのは、進化論で有名なチャールズ・ダーウィン[1809─82]であった。 その後も花粉研究は進み、スコットランド生まれの植物学者ロバート・ブラウン[1773─1858]が花粉粒内の微粒子が不規則に運動することを観察し、物理学の歴史にその名を遺したブラウン運動を発見した(1827年)。 ブラウンは当初、花粉のもつ生命力が花粉粒内の微粒子を動かすと考えたが、20年間貯蔵した花粉や鉱物の粉でも同様の現象が起こることを知り、これが物理的な運動であることを発見した。ブラウン運動が熱運動する水分子の不規則な衝突に起因することを証明したのは、アルベルト・アインシュタインである(1905年)。 このように人をひきつけてやまない花粉であるからには、当然日本にもその探求に余念のなかった人物がいるはずだ。私が注目しているのは、江戸の三大農学者と称された大分出身の大蔵永常[1768─1860頃]である。おそらく日本で最初に花粉を観察した人物であろう。1831年刊の『再種方附録』には、蘭学者中環(天游[1783─1835])に顕微鏡でイネの花を見せてもらったと書かれており、「稲花雌雄蘂之図」を掲載、「花粉」という言葉こそ使われていないが、詳しい説明が付されている。 「黄なる粉、これは黄色なる至極細かなる球にして、周面に細かなるものつきてかたち金平糖のごとし。黄なる粉は花の精気にして雄蘂より吹き出すものなり。雌蘂、これをよびとりてその頭につけ、またその至極の精気を実のうちに伝えて生力を起こさしむるものなり」
現代では衣服や靴底に付着していた花粉が決め手になって、殺人犯が逮捕されたケースもある。
花粉分析
ヨーロッパを中心に見られる「イネ科花粉症」
アメリカが中心の「ブタクサ花粉症」
日本の「スギ花粉症」
花粉症の父, 花粉症研究の父
「イギリスは花粉症誕生の地、アメリカは花粉症の選ばれし家」と述べたのは、イギリスの咽頭科学のパイオニア、モレル・マッケンジーであった。アメリカのジャーナリスト、ウィリアム・ハード[1878─1962]は、「花粉症は、今日、アメリカの特産品である。他のどんな国でも、花粉症がこれほどの雇用を生み、富をつくり出す源となっているところはないであろう」と述べている。 日本国内で実際に花粉症患者が出現したのは、小林の論考が発表された約30年後のことで、1961年にブタクサ花粉症患者、さらに3年後の1964年にスギ花粉症患者の存在が報告された。しかし、1980年頃まで、花粉症はいまだ珍病・奇病と見なされていた。