『日本人のための第一次世界大戦史』
「台頭する国家は自国の権利を強く意識し、より大きな影響力(利益)と敬意(名誉)を求めるようになる。チャレンジャーに直面した既存の大国は状況を恐れ、不安になり、守りを固める」
オスマン帝国の木造戦列艦の外板は簡単に打ち破られ、炸裂弾は船体内部で爆発し搭載している火薬を誘爆させました。アヘン戦争でもみられた光景ですが、今回の相手は中国のジャンク船ではなくオスマン帝国海軍の戦列艦という洋式帆船でした。ロシア艦隊はオスマン艦隊をほぼ全滅させ、陸上の港湾施設や港町まで砲撃して破壊して炎上させました。そのためにこの海戦は「シノップの虐殺」とまで呼ばれたのです(*12)。 折から英仏では、識字率の向上や印刷機械の合理化、紙の低価格化によって新聞が発行部数を伸ばしていた時期でした。そこに「虐殺」という言葉がメディアで大々的に報道されました。シノップの海戦の時点ではまだ電信は通じておらず、ロンドンまでのニュースの伝達には10日間を要しましたが、クリミア戦争の最中に戦場とロンドンが有線の電信で結ばれ、タイムズの従軍記者が記事を書き、ほぼリアルタイムでの戦況報道がなされるようになりました。 「虐殺」という言葉は一人歩きをして英仏のロシアに対する宣戦布告への世論喚起に使われ、当時のヴィクトリア女王や首相は戦争に乗り気ではなかったのですが、ジャーナリズムが形成する世論によって英仏両国は翌年、ロシアに対して開戦することになりました(*13)。昔のように王様や貴族が戦争を決めるのではなく、市民の力が認識されはじめた戦争でした。 これ以降戦争が生起するたびに、政府は常に敵側は残忍な性格で「虐殺」をする国民であることと喧伝し、政府によって国民の戦意向上に利用されるのですが、今度は逆に外交方針が、盛り上がる国民世論の影響を無視できなくなっていくのです。 戦争と鉄道
鉄道は補給において防御に大事な要素
鉄道発達前は軍馬を利用しており、その飼料の調達が課題で、鉄道の登場は軍事上・補給上革命的だった。
電信の発明
1791年フランスで、腕木信号が実用化
1分間で送れる情報は3文字分
モールスが1844年にワシントンとボルティモア間に最初の電信回線を開通させると、顧客はどんどん増えていきました。顧客が増えるたびに、顧客の通信相手もどんどん増えて、電信はビジネスに欠かせない道具になっていきました。ネットワーク外部性の典型例です。 電信は折からの鉄道の延伸開通に合わせて全米津々浦々にケーブルが架設されていきました。1851年にケーブルが英仏海峡を横断すると、ユダヤ系ドイツ人のポール・ジュリアス・ロイターはこれを商機として、ロンドン市場の証券価格を含む金融情報を欧州各地に配信するサービスを開始しました。ロイター通信です。