『地獄に堕ちるわよ』
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ネタバレあり
戦後
日本の終戦は、一般的に1945年(昭和20年)8月15日です。昭和天皇がポツダム宣言の受諾を国民に伝える「玉音放送」をラジオで行い、戦争の終結を告げた日です。 「この服を着た君と銀座を歩きたい」
銀座は一流が集まる街、歩いているだけで贅沢な気分になる街 路地裏でキスをする
おにぎり、味噌汁屋さん
大学に潜り込む
銀座のクラブを開店
1週間で戻ってくる
裏切りの詐欺、母の死。どん底のどん底。ここが地獄? お金、借金は人の夢を叶えるし、人に地獄も見させる。 筋の悪い客がいても構わないというスタイル
助けられると好意を持つ。
第158回 「恋」は「孤悲(こい)」
『日本国語大辞典』には先ずこのような用例が引用されている。
「明日香河川淀去らず立つ霧の思ひ過ぐべき孤悲(コヒ)にあらなくに〈山部赤人〉」(『万葉集』巻3・325)
明日香川の川のよどんでいるところを離れずに立つ霧のように、すぐに消えてしまうようなわたしの恋(=思慕の情)ではないのに、といった意味であろうか。この「恋」には恋愛感情の意味はない。また、「孤悲」とする表記も興味深く、『日本国語大辞典』にはそれについて詳しい注記がある。長くなるが引用する。 「目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持の裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある。その点、『万葉』で多用された『孤悲』という表記は漢籍の影響も指摘されてはいるが、当時の解釈をよく表わしている。」
古代人の「恋」という語のとらえ方がわかって面白い。何やら宣伝めいてしまうが、辞書の中には、こうしたことばの歴史を学べるものもあるのである。
1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸す8。その知人だけではなく、マネージャーや面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき総額16億円の借金を抱えた。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという。この借金の整理の過程で細木数子と知り合い、以後しばらく細木が島倉のマネージャーを務めた13。 1977年(39歳)、島倉に手形の裏書をさせていた守屋義人が事業に失敗して、不渡り手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年ほどで20億近くの借金を完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は衰えず、NHK紅白歌合戦出場を続ける。1980年頃、細木との金銭トラブルにより袂を分かつ。 島倉千代子の多額の借金と細木数子との関係性
億の借金をできるのもすごい。
生田斗真やるやん。
守りたくなるような島倉の歌。
歌手島倉、マネージャー細木のタッグ
馬車馬のように働く
姉妹みたいな関係性
細木の話、メッチャ虚構説から勢いでてきた。
この時すでに天下の島倉千代子
これまで食いものにされてきた経験から、島倉千代子を食いものにして荒稼ぎする。1年で島倉の借金分は余裕で回収した。
借金があといくら残ってるかを明かさないのがミソ。
芸能界に数々の足跡…細木数子さん 借金10億円超の大物歌手の後見人に
【細木数子さん死去 】 細木さんは芸能界にも数々の足跡を残した。1977年、島倉千代子さんの会見に同席。当時島倉さんは10億円を超える借金を背負っており、後見人として問題の解決に動いたのが細木さんだった。その後、細木さんは芸能プロダクション「ミュージックオフィス」を設立し、島倉さんの楽曲の作詞なども手掛けた。しかし、その後は2人の間で確執が生まれたとされた。 また99年に勃発し、連日ワイドショーをにぎわせた浅香光代さんと野村沙知代さんとの批判合戦「ミッチー・サッチー騒動」の際には、かねて親交のあった野村さんを擁護。料理研究家の神田川俊郎さんらと“サッチー救出会議”を開くなど、存在感を放った。 三浦透子の演技こえー。怪演。すごすぎ。
殺しかセックスのどっちかかと思ったら、殺しかセックスのどっちかだった。 https://open.spotify.com/track/5hIBNRNYo7zVcXNgbO4kCD?si=wBe6bKiqT_WHiZNifZfHmA
島倉千代子
紅白出場情報
出場回数 35回
初出場 1957年(19歳)
逢いたいなァあの人に
最近の出場 2004年(66歳)
人生いろいろ
セックススタート
細木数子という虚像として生き続けなければならない。嘘に嘘を上塗りする。 口を拭うマイム
じいさんの生田斗真
「おいしかった?」
「まずかった」
献身的な看護
そういえば、細木数子とHGの険悪な状況あったの思い出した。
ティアラどこ?からの大人細木と幼少期細木の遭遇、怖すぎ。
細木数子と闘った作家・溝口敦氏は『地獄に墜ちるわよ』をどう見たか? “女ヤクザ”の手口と正体
──新橋、銀座で成功した細木が大箱のディスコ、「マンハッタン」を出したのが赤坂でした。 たとえば山口組系山健組の山本健一(田岡一雄時代の山口組若頭)とか5代目組長の渡辺芳則などが細木の赤坂の店に通っていた。もちろん細木と親しく口を利く太客です。当時のそうした情況を山健組本部長などが私にいろいろ伝えてくれた。私が当時通っていた赤坂の店で山口組系の組員たちと顔見知りになり、その中に重要な情報源となる人物がいたんです。彼らに話を聞くと、「ああ、細木か」と。暴力団との関係が次々と明らかになっていきました。連載は進むにつれて取材網は広がり、僕の知り合いもどんどん絡んできて、面白くなってきた。当初4回の予定だった連載は、到底収まりきらない。「これは十数回は必要になる」と編集長に伝えて、延長を重ねました。そうこうしているうちに、細木側が「訴える」と言い出した。それで、こっちもますます引けなくなっていったんです。 ──そして、実際に法廷で争うことになります。
ええ。ただ、面白いのは、彼女たちの戦術です。最初の裁判で訴えられたのは、講談社の社長だけで、僕や担当編集者は訴訟の対象から外された。おそらく、僕個人を訴えると、僕が持つ裏社会の情報を法廷で暴露されることを恐れたんでしょう。人を舐めたやり方ですよ。 ──ご自身が訴えられていないにもかかわらず、裁判には参加されました。
当たり前です。僕が書いた原稿が原因で講談社が訴えられているわけですから、負ければ多大な迷惑をかけることになる。講談社側の弁護士とは別に、自分で弁護士を探して、「補助参加」という形で裁判に加わりました。いずれにしても細木側のやり方は、「周囲を訴えて脅せばひるむだろう」ということで、人をバカにしている。僕を訴えずに外堀を埋めようとするなんて、完全に戦術を間違えていますよ。そんな小手先のやり方で潰せる相手だと思われたのなら、心外です。 ──その細木数子とはどんな女だったのか。暴力団の幹部と長期間同棲したりして「ヤクザの女」に見えますが、溝口さんはご著書の中で、「女ヤクザ」と表現した。彼女自身がヤクザだったということですか?
彼女は「ヤクザの女」ではない。「女ヤクザ」そのものでした。 今改めて細木数子の人生を振り返ることは、一つの時代を記録する上で非常に価値がある。