『問いの立て方』
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「いい問いの立て方」を考えるにあたり、直ちに三つ、思いつくことがあります。 一つ目は、「いい」という言葉の意味。いいとは、「良い」か「善い」か。前者なら、基準なり指標なり、何かしらの尺度が必要となります。 二つ目は、「問い」とは何か、ということ。調べれば答えがわかる問いもあれば、答えなどない問いもある。前者は「問題」や「質問」と呼ばれるものだろうし、後者は「課題」や「テーマ」、「目標」の類いとなるでしょう。 三つ目は、そもそも、いい問いの「立て方」という何かしらの方法論があるのか、ということ。言い換えるなら、いい問いを見つけようと思って見つけられるような問いが、果たして「いい問い」であるのか、という疑問です。
慌ててて付け加えますが、そのような探索活動を否定しているのではありません。自分の外に何かを見つけようとして探索するのではなく、いろんなものを探索しながら、自分の気持ちは何に反応するのかを観察する内なる目がほんとうに大事だと思うのです。自分はこれをやってみて面白いと感じた。でも、なぜ面白いと感じたのだろう。それは気分的なことなのか2、それとも自分自身の根幹、アイデンティティに関わったことだからなのか……。このように気分的な好き嫌いを超えたところでの思考も伴わないと、あれも違うこれも違うといつまでも探し続けることになることは間違いありません3。
「なぜその問いがあるのか」という問いを問う問い
といった具合に……。このようなやり取りではなかなか建設的な議論ができないことに疑いはありません。やはり、問いや意見、考え単独ではなく、前提とされるその根拠こそを見ようとする仕方、つまり、その考えの前提を踏まえたもう一つ深い次元で考えることが、いい問い、すなわち本質的な問いに接近することになるのです。
言葉としての存在
かつてヘラクレイトスは、「深淵の際までは行けるだろうが、その底を覗くことは決してできない」と言ったそうです。古来まれたる哲学者、偉人たちもこの時点において、なんとか、深淵と称した自分は無いという事実(=虚無=真理)に飲み込まれることなく、いうなら、あちら側にいってしまわずにこちら側にとどまった人格なのでしょう。あちらに行った人たちは黙って生き黙って死んだ。あるいは気が触れて死んだ。そのため歴史に残っていないのです。そして、達しつつも黙っていた人格たちを、(ほんとうの)哲学者たちが理想としていた気持ちがよくわかります。黙らずに語ろうとするなら、──ほんとうにほんとうのこと、「本質」なるものに迫ろうとする場合においてのみ──必ず二元論の矛盾(後ほど述べます)と向き合うことになり、どうしてもどこかで調整し辻褄をあわせる必要が生じるからです。そうしないと保てないのです。新しい概念や専門用語を導入したり、あるいは誰かを否定したり……。我々が何かの精神に触れ感動を呼び起こすとき、そういう矛盾と葛藤を原点とする止むに止まれぬあがきにこそ、深み、凄みを感じるのでしょう。だからこそ、直ちに「自分はわかっている」「答えがある」「誰それが悪い」などと言い放つ精神を軽蔑するのでしょう。そんなにはっきり言えるほど真理は生半可なものじゃないよ、と。そう言えるほど、自分とは確固たるものじゃないよ、と。