日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち
日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち - 海外サッカー - Number Web - ナンバー
彼らは、自分がスタメンである、とか、技術的に劣っている、といった自己/周囲の評価を、自分が意見を述べる権利の有無と混同しません。サッカーには、プレーを通して、自分の主張で周囲を説得しないといけない場面がありますが、この序列と権利の混同を抱えたままだと、こうした場面で「言われたことしかやらない」選手になってしまいます。「自分の主張(プレー)を述べる権利」を、周囲から「許されるもの・与えられるもの」として捉えているからです。
それはサッカーがプレーするに足らない、魅力のないスポーツだからではなく、熱中していた時にあった序列的な空気構造がサッカーを「つまらなく」感じさせてしまったからではないでしょうか。「サッカーと自分の蜜月関係」の間に、上手くいかない、嘲笑される、誰かにジャッジされる、という横槍がザクザクと入り込んで、サッカーを「誰かより劣っていた記憶」として、あるいは「自らを序列に当てはめた記憶」として刻んでしまう。好きで始めたサッカーが、ヒエラルキーの象徴に化けてしまう。
トレーニングウェアなのかすら分からないTシャツを汗だくにして、脂で武装した横腹を短パンの上に乗せ、得体の知れないメーカーの靴を履いて、ゴール七個分外れた軌道のシュートに対して、1秒遅れで大味なスライディングタックルを飛ばしている。しかし、彼らは真剣であり、恥とは無縁、自嘲が入り込む隙間はありません。
そして何より重要なのは、その姿を育成年代の子どもたちが見ることです。サッカークラブは、地域は、そうしたおっさんたちにグラウンドを提供し、それを目の当たりにすることで、子どもたちはサッカーが上位総取りの序列的なスポーツではないことを理解します。サッカー、自分、自分より上手い/下手な人たち、それを上からジャッジする誰か、という序列構造から、サッカーと自分の蜜月関係を取り戻す方法を知ります。
1秒遅れのスライディングは、子どもたちに「この先もサッカーを紡いでいく選択肢」を与えているし、その脇腹は「サッカーは生涯、愛するに足るスポーツだ」と教えているのです。
事実、僕が指導するクラブでも「ここじゃあ試合に出場できないなぁ」と察して、早々にそちらの『おっさん』チームに混ざってサッカーを続ける青年が、毎年一定数います。そして、彼らは辞めた、続けた、生き残った、落ちこぼれた、を経てもなお、それをひとりの人間としての優劣と混同せず、同じようにスパイクと練習着を持ってグラウンドに向かい、それぞれのサッカーを続けていきます。
年の瀬になりました。ボール、蹴りませんか?