『ポケモンの神話学』
著者:中沢新一
アジア人であるパイクさんは、どうやら自然と技術を、西欧の人々のようには対立的にとらえてはいないらしい。技術は自然をたんに制圧したり破壊したりするものではなく、むしろ自然の中に眠ったまま隠れている「自然の本質」とでもいうべきものを、外にひっぱり出してくる働きを持っているのではないか。そうなると、緑の植物の群れの中におかれたテレビモニターの映像は、自然に対立する技術をあらわしているのではなく、技術によって自然の奥からひっぱり出されてきた、その隠された本質をあらわそうとしているのではないだろうか。ジャングルの中で発光する電子映像と、それを取り囲む自然の植物とのあいだには、こうしてひとつの連続がつくりだされてくる。
『野生の思考』
レヴィ=ストロース
宇宙, 宇宙人が主軸の作品
すでに「宇宙」は「心」の同義語になっていたからである。「宇宙」は無限の広がりを持った容器のようなものであり、そこに潜在していたエネルギーから物質も生命も意識もつくりだされてきた。
この分野で、大きな達成をなしたのは、いうまでもなく『ウルトラマン』だ。『ウルトラマン』は、怪獣にかつてないほどに豊かな多様性を実現してみせた。言いかえれば、意識の「へり」に出現する「対象a」をみごとにこねあげ、変形して、際限もないような多様な造形で、私たちをびっくりさせたのだ。この達成に匹敵するものは、江戸時代に流行した「百鬼夜行図」くらいしかないかもしれない。あの作品も、橋のたもと、柳の下、長く続く武家屋敷の土塀のわき、神社の森や山奥の谷などに出現するといわれたさまざまな妖怪たちの姿を、一〇〇を越える多様性に描きわけた傑作だった。ところが、そんな妖怪の出現場所もすっかり開発が進んで、明るい街灯の光が闇をなくしていこうとしている七〇年代の日本に、『ウルトラマン』という作品は、みごとに造形された「対象a」の出現風景を描きだしてみせたのである。
モンスターは、突然現れる。
これでは「物語」はつくれない。モンスターの出現場所とされる洞窟とか森とかが設定されているのであれば、そこは世界の深層や内奥への入口と考えられるので、その中に入り込んでいくことによって、ひとつの物語をはじめることもできる。ところが、インベーダーやウルトラマン怪獣のように、深層も内奥もない、内部も外部もない、いわば表層だけでできた世界にいきなりトランスポートの様式で出現してこられても、人間にはそこから物語を生成させる想像力の発動のしようがない。そうなると、ただ戦うだけだ。今週も来週も、昨日も今日も、くりかえしくりかえし同じ戦いが続けられる。反復の面白さはある。ただ物語は生まれてこない。そうなると、映画でいうとB級だ。 物語を発動させるためには、この内部も外部もない、ただ表層だけでできた裸形の世界を、折り畳むようにして、そこに「襞」や「窪み」や「穴」をつくりだすだけで十分だ。
「対象a」のはらむ魔力は、分離的結合の道具である「モンスターボール」の働きと、オーキド博士という名の科学的知性の力によって、最初からある程度は「知性化」されているのだ。オーキド博士は、このゲームの主人公となるプレイヤーにとっては、隣家に住む同年代の少年で自分のライバルとなる子のおじいさんにあたる。ということは、プレイヤーとオーキド博士との間に血のつながりはなく、ただ同じ知的情熱を共有する者どうしの知的な友愛が、二人を強く結びつけることになるのだ。オーキド博士は、自分の孫だからといってけっしてえこひいきはしない。それどころか、肉親よりも知的友愛の相手のほうを、大切に扱う行動をとる。オーキド博士とは、「父のことば」の代表者として、このゲームの宇宙の全域に浸透する力の別名にほかならない。
遺伝子的な繋がりよりも、知性の繋がりを優先。血と知。
「オーキド博士」の活躍や「モンスターボール」の働きによって、『ポケモン』の宇宙にはやりすぎない程度に知性化がほどこされている。そのために、へたをすると子どもの心をずるずると心理の深みに引きずり込んでいく、フェティシズムが作動しないようにつくられている。その様子は、悪魔と言われる存在とちがって、神のことばを受け入れることによって、ことば以前の宇宙的な力を知性化できた天使が、ずるずるとじめじめした暗闇にはまりこんでいくこともなく、軽々とこの世界を駆け抜け飛翔していくさまと、とてもよく似ているのである。宇宙創造以前の力が、ことばによって物質性に執着をおこすと悪魔が生まれる。その反対に、ことばによって知性化を果たすと天使になる。悪魔と天使は、このようにもともとは同じ存在なのだ。
ポケモンの属性、ジャンケン、五行説
ポケモンの交換と贈与、ポトラッチ
(potlatch 消費するの意) 北アメリカ太平洋岸のハイダ、クワキウトゥルなどのアメリカインディアンの社会にみられる儀礼的な贈答競争。 客を招き宴会を開いて財物を消費し、招かれた相手も名誉にかけて別の機会にそれ以上の消費をし、過度の消費によって名誉ある地位を得ようとする。
ひとりで閉鎖的に行ってしまうテレビゲームを、コミュニケーションの道具とした。
like a 物々交換
贈与という行為には、商品の売買やたんなる物々交換では発生しない特殊な感覚がつきまとう。商品には、売る人の人格がこめられることはない。というよりも、もとの所有者の人格がいっさいぬぐい去られて、「無縁」となった品物だけが、商品となることができるのである。ところが、贈与の場合には、品物から贈り主の人格がきれいさっぱりぬぐい去られてしまうことはない。贈与される品物には、贈り主の人格の一部がかならず付着している。品物と人格が一体となって、じつは贈与品というものはできあがっているのである。
「ポケモン」の交換がおこなわれたとき、じつはこの人格の付着という、興味深い現象がおこっている。野原や森や洞窟で自分が捕まえて育てた「ポケモン」には、「親」である自分の名前とIDがつくようになっている。こうして名前のついた「ポケモン」は、通信交換によって誰かほかの人のシリコンチップの中に収められたとしても、いつでも名付けの「親」の名前が表示されるようになっている。こうして、「ポケモン」はどこへ手渡されていこうとも、最後まで自分の「ポケモン」だとわかる仕組みになっている。
こうして、交換された「ポケモン」には、それを最初に育てたプレイヤーの人格の一部が付着することになるのだ。
「野生の思考」では、ものはたんなるものではなく、ものを所有するとは、自分の人格の中にそのものを包み込むことを意味している。その所有物を市場に持っていって商品として売る場合には、いったんものに付着した人格の一部をそのものから分離して切り離すための、なんらかの儀礼的な行動が必要だと考えられていた。
だが、商品として売るのではなく、それを自分が大切にしている人などに贈る場合には、むしろものに付着した人格の一部をものに付けて贈るということがおこなわれる。
逆に言うと、ものを贈ることによって、相手の人格の中に自分の人格の一部をおくり込もうとする行為がおこなわれたわけだ。
「贈与の霊が動いた」
贈与論
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アリストテレスも似たようなことを書いている。彼は、「子どもに酒を飲ませてはいけない」という当時も言われていたきまりを分析して、つぎのように考えた。子どもは酒と同じ性質を持っている。だから、みだりに子どもが酒を飲むと、自分の中の火の性質を危険なほどに強化してしまうことになる。子どもは火だ。だから「火の水」である酒を飲ませてはならないのである。