「選択」することはない。偶然性に対して常に心身を開き、ときには翻弄され、偶然的な責任を引き受けていく
ここまで書いてきてなんですが、わたくしはこれまでのキャリアにおいて「選択」をしたことがありません。おそらくは、今後も「選択」することはないでしょう。 市役所職員からソフトウェアエンジニアに転じた際は、友人が務めていた会社の拠点移動にともない誘われたことに対して一も二もなくのったのですし、現職のGMOペパボに入社したのも自分の考えと合致する方向性に乗り出したことに面白さを感じて転職したというだけのことです。「選択」とは、複数の候補を比較検討し、なんらかの基準にもとづいてどれかを選ぶという行為ですが、わたくしはその都度に面白いと感じること、ただそれのみに取り組んできただけであり、一切の選択をしていないのです。
この文章で述べてきたマネジメント職についても、わたくしが自らそれを望んで転身したというのではありませんでした。ただわたくしにとってリアルに感じられたのは、わたくしがやらなければこの会社はマズいことになってしまう、それをなんとかしなければならないという必要性のみでした。その必要性を前にして、少なくともわたくしは「選択」という行為をとることはできませんでした。すなわち、わたくしがリーダーシップをとる以外の行動があり得なかったのです。 そもそもわたくしにとって人生とは、最初からそのようなものではなかったか、そう思うわけです。わたくしは、自堕落に生きることよりも何か高みを目指して努力を継続するという選択をしたことはありません。かといって、もちろん逆に自堕落な生を選択したわけでもありません。わたくしたちにとって、未来は常にあらゆる可能性に開かれています。しかしその可能性とは、選択肢のことではありません。いかようにでもあり得るということが、ある時において偶然にも特定の状態に収束すること、そういう意味における可能性です。 その絶対的な偶然性に対して常に心身を開き、ときには翻弄され、偶然的な責任を引き受けていくこと。そういうことが人生において大事なのではないかということを、わたくしは学んだのでした。