即興演奏とは本当に即興なのか
谷准教授は主に、口頭性(Orality 楽譜を用いず口伝えであること)と身体性(Physicality 楽器ごとに異なる「手指や身体の使い方」がどう音楽に影響しているか)という観点から、イランにおいて音楽レッスンへの参与観察を行いました。その結果、当地の即興演奏は、共有されている音楽的語彙(決まり文句)を演奏の瞬間に「思い出し」たり「言い換える」ことによって成り立っていること、ペルシア語(古典詩)の朗誦リズムに大きく影響を受けていること、テトラコード(※1)ごとに異なる弦楽器ネック上の手指のフォームに対する記憶が即興演奏の自由度に大きく関係していること、などを明らかにしました。
背景
民族音楽学においてこれまで「即興」という概念はたびたび検討の対象となってきました。即興演奏を行なう音楽家は、全く無の状態から音楽を生み出しているわけではなく、予め即興というパフォーマンスの基盤となるものを準備している――民族音楽学はこのような考え方に基づき、世界の多種多様な音楽文化における「パフォーマンスの基盤となるもの」の内実の解明をこれまで研究の中心課題としてきました。そしてその一方で、即興演奏とはこのような予め体得された「ルール(=義務的要素)」に基づきつつも、演奏のまさにその瞬間に演者が「個性を自由に発揮する」ことによってなされるのだと認識してきました。すなわちこれまでの研究は、即興演奏というものを最終的には音楽家個人の自由や創造性の中で捉えようとしてきたと言えます。
しかし彼らの即興演奏を観察していると、客観的にみるところの同じ演奏を「違う」と称したり、逆に異なる演奏を「同じ」だと称する事態に頻繁に出くわします。
我々と異なったこうしたイラン人の即興に対する認識がいかなる感覚に基づくものなのかを考察するにあたって谷准教授は、「(口頭伝承を基本とする)声の文化」的精神と「(楽譜の存在を自明とする傾向の強い)テクスト文化」的精神という対比項を設定し、イランの音楽では演奏者にとってそもそも「自由」や「個性を発揮」というようなあり方が、近代西洋的な意味合い(義務的要素と対置されるような字義通りの概念)としては存在しにくいことを明らかにしました。
内容
例えば研究者がよく行うように、2つの譜例を比較したとします(図1)。これらの楽譜を「見る」ものにとっては、両者は明らかに異なったものです。しかしこれらの音楽を音声のみで認識し伝承するものにとって、その捉え方は異なります。まずこの2つの旋律は同じ名称でこれまで伝承されてきたもので、社会に共有されているものです。ここでの違いは、「個性が刻印された違い」というよりは、「同じものを言い換えた」という違いです。「声の文化」において旋律の記憶とは、書き留められないおぼろげな「思い出」(Peabody 1975:216)のようなもので、「すぐに消えてしまう」音声がデフォルトな世界では、この2つの音楽は「同じもの」として認識される傾向が強いのです。
また谷准教授はこのことをさらに展開し、即興演奏の説明としてよく使われる「一回限り」の意味にも文化的な差があることを指摘します。すなわち、「文字の文化」においては、導き出された演奏結果(プロダクト)が一回限りと考える傾向がある一方で、「声の文化」においては、音楽を導き出す内的なプロセスがその都度ある(一回限り)とする傾向がある――すなわち、「研究の背景」で例として挙げたように、演奏者が自覚していなければ、「客観的に同じ」演奏を繰り返して「私は一度として同じ演奏はしていない」と宣言することさえ出来る、という感覚が生成されるのです。谷准教授はこうした事例を通して、イラン音楽が、楽譜を前提とする近代西洋音楽とは全く異なった感覚のもとに営まれていることを明らかにしました。
演奏における身体感覚の違い
特に注目したのが、セタール(「3弦」を意味するフレット付き長棹撥弦楽器)(図2)などの弦楽器奏者らが複数のテトラコードの違いを、手指のフォーム(手癖)の違いとしても認識しているという点です。演奏者は、様々な音階構造を聴覚だけからではなく触覚からも認識しており、そのことにより、手癖という身体性に導かれながら転調を含む高度な即興演奏を展開する実態があることを明らかにしました。