Cipher ライナーノーツ v.1
第五版付録予定 初稿
『Cipher』を書いた当時、私は美大の絵画学科油画専攻に在籍していた。詳細は省くが私は油画専攻の在学中に絵画をあまり描かず、小説を書いて本を作り、ときには油画の教諭(つまり経験を詰んだ芸術家たち)に作品を見せた。『Cipher』を教諭に見せると、「ここまで黒く、読めないようにしなくても良いのではないか」という意見を貰った。当時の私はこの作品にはこれほど強い闇が必要であると反発した。現在の『Cipher』第五版はレーザープリントを使っているが、当時の初版はインクジェットプリンタを使って印刷製本した。インクジェットプリンタのインキは液体なので、インキの色が紙に染み込んで文字の黒が紙の黒のなかに埋没し、いまよりも可読性は低くなる。
美学や哲学的な理由から、私はかねてより見えるもの・見えないものに対する興味があった。
絵画には支持体という言葉がある。紙やカンバスなど、絵を描かれる方の材料を支持体という。小説などのテキストは、絵画と異なり支持体を選ばない。同じ小説でも加筆修正のない限り、他の作品と一緒に雑誌に掲載された作品、単行本化した作品、文庫化した作品は等価である。もし、特定の支持体でなければ成立しない小説作品を作ることができれば、芸術の歴史に対して私は新しい杭を打つことができるのではないかと考え、私は「読めないテキスト」を構想した。通常の書籍用紙にニスや透明なトナーを使って文章を載せることをまず思い浮かべたが、予算の都合で一般的な黒インキを黒い紙に乗せることにした。
黒一色の書物に掲載するテキストには、構想中の物語の一部分を選んだ。
私の書く物語は、ある核心を共有する長いシリーズ物になっている。2011年の年明けの冬にいつか書こうと【決まった】カラスにまつわるある人物の話がちょうど書籍作品の意図に叶うと思い、それが『Cipher』という題名の物語になった。(物語のはじまりは向こうからやってくるので、私は物語に対して自発的に構想することがあまり無い)
当時の小説の書き方はジャズィーだった。物語内のいくつかの通過点と結末だけが決まっていて、合間の小節は流れに任せて即興で書いた。小説における物語の部分が歌曲のメロディーや歌詞に対応するなら、歌曲にとって伴奏にあたるパートも小説は持っている。私は小説において伴奏的な箇所を流れと呼んでいる。ムードや、色のトーンと言い換えても良い。
小説を書くために、どんな舞台で誰がどうなったという物語の部分と、物語を書き進めるための流れが必要だった。物語と流れを円滑に結びつけるために私はカラス・ピアノジャズ・演劇・夜の街といったモチーフを採用した。私の小説は物語と流れとモチーフが柱になっている。
『Cipher』を書いた私は若者だったので、社会または世界への怒りと不信感は直接的に作中の流れに現れた。2014年の初版発行当時に書いた作者コメントで、私は「これは20年分の私の怒りと愛です。」と書いた。今では怒りを潤滑油にして書くことを辞めたが、当時の私には『Cipher』を通じて現れた怒りは切実な感覚だった。怒りを材料に執筆をはじめたのではなかったが、物語を書き進めると流れのなかに今まで書いたことのない怒りが現れた。強い怒りを自覚して書いたのはあれが初めてであり、今のところ最後だ。
TVメディアによる有名人の結婚報道または不倫報道などを目にするたびに他人への余計な詮索にうんざりするが、それはメディアを支える視聴者自身が他人の人生への詮索を求めているからだ。2012~2013年ごろの不確かな記憶だが、私はTwitterでこのような発言を目にした。「さっき見かけたゲイカップルが仲睦まじかった。私は彼らの様子を自分の好きなBLカップリングに投影して萌えた」こういう旨のつぶやきが3、4桁数RTされて私の目にするところにまで届いた。全くの赤の他人の日常を単なる情報として切り取っている人が少なからずいることを知って私はぞっとした。
そこから、では架空の物語を読むことも他人の人生を踏み台にした情報の消費に過ぎないのではないかと考えが飛躍した。フィクションの登場人物たちに人権はあるのか/あってほしい/あるべきだと当時の私はよく考えた。この問いを明快に肯定する万能の答えは見つからなかった。世間のエンタメ作品読者たちは「フィクションだからこそ対象にはいくらでも欲望をぶつけていい」という考えを当然の免罪符として持ち歩いていた。
フィクションが現実に対して全く関係ないと疑いなく信じている人々は、現実の出来事に対する意思を全く含んでいない物語を選んで観賞してきたのだろう。作り話を組み立てることによって、フィクションを超えて現実に手を伸ばし、時には現実をひっくり返そうと企てるフィクションも存在する。このふたつは読者の姿勢が異なるので、どちらが優れていると比べるのは牛肉とケーキを比べるように無意味である。
『Cipher』では、物語に加わった怒りが現実世界に露骨なほど手を伸ばしている。現実に引っかき傷を残そうとした作品のたくらみが過剰な表現だったとしても、一度はたくらみを完遂することを目指し、『Cipher』初版は2014年4月に完成した。その初版を美大の教諭である芸術家に見せると、先生の老眼もあり「もうすこし文字を見えるようにしても良かったのでは」と懐疑的な評価をされた。私は若造だったので、作中に流れる怒りと、怒りによって生まれた過剰さは、当時の私には必要な要素だったと思っていた。
ただし当時も作品に使用したマテリアルに対する懸念は抱いていた。もっと試行錯誤できたのではないか。インクジェットプリンタを使用して手製本で制作した初版〜第三版における紙とインキの黒色のコントラストは本当に適切だったのか、当時の私は予算や材料入手の都合で自分の意図をねじまげて無理に納得していなかったか。もし自宅のプリンタがレーザープリンタだったら初版の姿は変わっていたのでは?
手製本の第三版が完売したのち、2016年に私は何軒かの同人誌印刷所に色上質黒への本文印刷ができるか相談した。同年11月に有限会社ねこのしっぽを利用して、はじめてオンデマンドプリント(レーザープリント)による『Cipher』第四版を制作した。色水を紙に吹き付けているインクジェットプリントと、紙にトナーを定着させるレーザープリントでは発色の仕組みが異なるため、レーザープリントによる第四版は以前の版よりも文字が明瞭に見えるようになった。トナーは光を反射するので、美しい表現を使うなら、黒い本文紙のなかでレーザープリントされた文字が「夜の街灯りを反射する水たまりのように」見えた。印刷を注文する前に、つや消しのトナーやオフセット印刷(インキによる印刷)の試し刷りも見せて貰ったが、それらはあまりにも文字が見えなくなりすぎた。
私は完全に見えないテキストを目指していたのではなく、読者に負荷を掛けつつも読み解ける文章にしたかった。Cipherという名詞は「数字のゼロ」または「暗号の一種」を意味する。暗号はいつか解かれる。本腰を入れて読まなければ中身を負えないような本を作ることで、本を見る自分・見られている本という見る・見られるの関係性や、この世の物はすべて光の反射によって見えていることを〝少部数制作の美術品として〟鑑賞者に伝えたかった。
本書は物語であり、物語の進行によって救われない悲しみに陥る人物がいる。物語は読者に読まれることによって完成するので、逆に言えば読者が読まなければ作中の不幸は知る由もないと考えた。黒い紙に印刷された悲劇が自ら読者を遠ざけて、自分たちを不幸から守るかもしれない。
『Cipher』は書籍である。本はおそらく世界最初の大量生産物である。印刷術は大量生産大量消費の象徴だ。印刷物をばらまくことで世界は近代化に向かった。だから「知られることを拒む物語」と「書籍」の形は矛盾している。〝美術作品の作家〟としては、作品観賞・流通の営みに他者が参加してくれたことをとても嬉しく思う。でも〝読まれたくないと望む物語の著作権保持者〟である私は作品のジレンマを解消できない。再販のたびに、作品に対するある種の不義理を感じている。
初版発行の2014年から時が経った現在、政治的な「黒塗り文書」の問題は私達のいる社会の残虐な不誠実さを現実に告発している。〝装丁デザイナー〟である私は「すべてが黒い書物」の佇まいを美しく感じるが、「黒い文書」に対する人々の第一印象は初版制作時には意図しなかった意味合いを強めただろう。黒いテキストとして見た目は似ていても、闇の中に自らを閉じ込めて沈むことを選択した言葉と、口をふさがれて塗り潰された文書の黒の意味は全く異なる。
『Cipher』を完全に読めない本にはせず、読書に困難を伴うが読む選択を行えば読み解ける本として制作したのは、「語りたくない悲劇もあるはずだ」という思いもありながら、沈黙を乗り越えて伝えたい意思もそこにあったのだと思う(それが怒りや呪詛だったとしても)。この内省には作者である私のエゴも含まれていることだろう。社会への怒りと不信感を表明した私も社会のなかにいるので、間違いと不義を己から切り離せない。
初版発行から6年経った作品に対して新たに読書を試みる人がいることを深く噛み締めたい。「お手にとっていただきありがとうございます」と言い切ることはできないが、この作品を手に取ることを選んだあなたの判断にお礼を言いたい。手元に渡った瞬間から本はあなたのものになる。本を読み続けるのも、読めずに諦めることも、途中でやめて本を閉じるのもあなたの尊い選択である。
闇のなかにいる言葉が、新たな鑑賞者によって新たな価値を見いだされることを願う。本作があなたにとっての特別な読書になることを祈っている。