BlueWall / 降霊術
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試しに初稿をScrapboxでやってみる試しでしたが、
そういえばScrapboxは行頭スペースがインデントに解釈されるので
小説にはいまいちですね。
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GitHubのレポジトリを公開設定にしようかな
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顔を上げると、スタジオに通じる締め切られたガラス戸の向こうで二人はまだ議論を重ねていた。
地下のスタジオは日の光が当たる世界から切り離された冥界のようで、レコーディングはさながら冥界下りだ、と、ときどき連想する。
俺はスタジオを出て、ロビーにある、座面の内綿が妙にふわふわした古い合皮のソファに席をとり、ドリンクサーバーの水で口を湿らせながら、渦中の曲の詞を直していた。
秋山聖の内奥にサディストがいることを多くの人は言及を避ける。人々は芸術的あるいは難解という評価を使って、聖が試す俺たちの表現を測った。休日も平日も猫をなでてあいまいにへらへら笑っている少年のようなギタリストが関心を寄せるものは、音楽の形式で表現される耐久試験だった。構成や展開を遠心力にかけた音楽がどれほどのあいだ自壊せずに音楽のかたちを保てるのか、また音楽を聴く人は乱された音楽に着いて来られるのか、不協和音を耐え抜いた先に前人未到のハーモニーが現れるのか、1本のギターを操る運指によって何が聴こえてくるのか。無邪気な観察の対象には自分自身と自分たちのバンドも含まれていた。自分の能力も対象にする嗜虐性は、本人が信じる最高の音楽をこの世に表現するために捧げられた生贄なのかもしれない。
手元の絵の具をすべて混ぜた濁色の向こうに虹の色を見出すように、聖は音を重ねて延ばした。聖は探検を愛して暗闇にどんどん歩みを進めるが、万人がその歩調に着いて行けるわけではない。
次のアルバムの5曲目が1トラック37分に膨らもうとしている。
「長いんだって」田邊徳仁は異論を挟んだ。これはさっき行われた会話だ。「聖、集中力が持たない」
「トクなら出来るでしょ」、同じバンドのミュージシャンに全幅の信頼を寄せて聖がすかさず反論した。
スタジオの壁面は紺青色(プルシャンブルー)で塗りつぶされている。光の反射で我々の姿は青ざめて見えた。
「できるよ」、とつとつと田邊は続ける。
「おれはできるけど、それで、これが良くなるとは思わない」
このドラマーの忠告も商業主義の観点からは進言してはいない。彼も彼で踊れる4つ打ちよりも己の信じる美しさを希求しているが、彼は軽快で聴き取りやすい方法がときには最適解であることも知っている。彼の審美眼は吹奏楽部の長い経験や、スタジオミュージシャンとして王道のJポップや広告のサウンドに関わった経験、さらには、アタックの瞬間のみ音が発生する打楽器の特性にも影響されているのかもしれないが、音楽の拡張性を強調する聖とは異なり、田邊の価値観は“適切に刻まれたもののなかにある間”を尊重しているのだと俺は評価している。極端にシンプルに言えば聖は音符を好み、田邊は休符を重視している。二人が小学校らいの友達でありいまも同居している間柄であることは、音楽をめぐる緊張と対立にいっさい関与しない。
「じゃあ、なに、5分に分けて、ふつうになれってこと? ふつうの、ふんいきだけの曲になるの?」
強い意思を抑えない聖に、田邊は辛抱強く付き合い、話題は繰り返しをたどった。
「もし5分で区切っても、おれたちの曲がつまらないはずがないだろ」
「7回フレーズを繰り返すからいいの、何回もやって、飽きたと思ったらちがってて、ループじゃなくて、上に登ってくような、一番高い塔になりたい」
声音の雲行きが怪しくなり(涙声になりそうだ)平行線をたどる議論を前に、俺は「休もう」と声を上げた。返事を待たずにベースをスタンドに立てて部屋を出た。俺だけの伝家宝刀も使った――「歌詞を書き直してくる」
それが「ついさっき」の出来事だった。地下室は時の流れを体感しづらい。スタジオは朝から終日借りていたので、俺達は時計を見ていない。
恵比寿の、名前が中国語だかで全然覚えられないので俺たちが青壁と呼んでいるこのリハーサル/レコーディングスタジオはすべての部屋と廊下、トイレの個室に至るまで壁面が同じ青色で塗られている。ここを使っているのは詩的な理由からではなく、価格と駐車場とエンジニアと機材が希望条件に叶うからで、ようするにテクニカルな事情に過ぎない。
俺たちはアイディアを持ち寄って曲を作り、量と輪郭がまとまると、俺が曲の意味を考えるフェーズに入る。万人を置いてけぼり(プログレッシブ)にしがちなアンサンブルのなかから、俺が見つけた歌の意味を歌詞にまとめて、言葉をボリューム0のパートとして作品に加える。俺はDrive to Plutoの歌詞をカオス状態から意味を見出す道標の明かりとして割り切った。バンドで演奏する俺達と、Drive to Plutoの歌を聴く人が暗闇で迷子にならないために、歌詞は地図やランタンとして作用する。
スタジオの扉が開き、表情を見せない田邊が俺を見下ろした。比較的彫りの深い彼の顔は、なにかの彫刻で見たことがあるような気がする。俺はさっき書き終えたページをぱらぱらとめくり自分で確かめ、俺の仕事の様子を見て、田邊はドリンクサーバーのコーラを注いでソファの離れた席に座り、手指を揉んで疲れを休めた。誰も地下室の階段を上がって外に出ようとはしない。誰も階段を降りてこない。変拍子とさきほどの論争を頭のなかで噛み砕きながら、ノートの言葉に打消線を引いて矢印で別の単語につなげた。
青ざめた地下室で時間の流れはあいまいだった。沈黙のなかそれぞれの休憩時間を過ごし、ふと気付けば、スタジオの扉の向こうから、伴奏のない歌声がかすかにロビーにまで伝わってくる。締め切った扉を隔てて聞こえる歌は、気のせいにして耳を塞ぐことも出来るささやかな音量である。いま、扉の向こうではギタリストがひとりで声を張り上げて歌っている。大量のエフェクターと技法とイマジネーションで固めたギターの奏法に比べれば、生身の歌声はあまりに素朴で技工を欠いていて、わずかな物音でかき消えそうで、張りがなく頼りない。ボイストレーニングに行かないことも聖の思想だと思うので、歌が終わるまで俺たちはわずかな振動で歌を遮らないように、席を立たずに押し黙っていた。聖はカラオケが嫌いで、誘うと機嫌を悪くする。
さっき飲み干したスターバックスコーヒーのセイレーンが視界の隅で笑っている。
しばらくして、スタジオの扉が静かに開いた。ぶすったれた猫の顔のように無表情な聖はドリンクサーバーのカルピスを注ぎ、「ここのやつ、薄いよね」と俺達に声をかけ、喉を鳴らしながらそれを飲んだ。コップ一杯の飲み物を飲みきってから、聖は、「それで、どうすんの」と俺に問うた。ノートの言葉は未完成だった。はじめから闇のすべてがあまさず照らされることはない。書いたことよりもむしろ打ち消し線を引いた言葉を思い出しながら、ページをめくり「まあ、長いよ」と、なるべく無機質な声音で口を開いた。俺以外皆黙っていた。
「ツーマンのライブでは、聴かせられないよな」言葉を選びながら続けた。田邊が足を組み直した。
「ツーマンの30分で聴かせてあげられる機会は、大事だし、37分ノーカットの密度はすごく……鬼気迫るけど……風通しが悪いのかな。アドリブの入れようがなく、隙間が全部詰まっている感じだった。
俺は切った方がいいと思うけど、捨てちゃうんじゃなくて、パートに分けたほうが良い。そしたら、個々のパートごとにアレンジの可能性がぐっと詰まるし、曲と曲の間に拡張性が生まれて、セトリで既存の曲を挟んだり、アレンジの仕方も変えられて、ライブでレコーディングの再現でないものをお客さんに伝えられると思う」
喋り終わり口を閉ざしても、異論を挟む者はなく、田邊は席を立って紙コップをゴミ箱に捨てた。俺は意図せずため息をついて、ノートを閉じ、立ち上がった。青野クン。と小さく聴こえた。
「青野クン、やるのは、青野くんなんだからね」
紺青色の地下室を背景にした聖の金髪はいっそ白髪にも見え、頭皮の油分でつやが浮いている。はじめてのライブで難題を押し付けてきた時よりも、聖は透徹に、冷酷になって、俺もきっと聖の信じる音楽好みにチューニングされた。
俺は、美しさは闇のなかにあると思う。美しさは手を伸ばしても指の間をすり抜けて、闇を光で照らしたときには光の届かない別の闇のなかに逃れてしまう。言葉が闇に分け入るとき、光で照らすことのできなかったもの、書こうとして書けなかった言葉のなかに、美しさはあるんだと思う。
「そういう役割だからな」
ベーシストはスタジオに戻ってジャズベースのストラップを肩にかけた。
「美しさ」を見つけ出すのは机上の作業で、レトリックの問題だ。でも「美しさ」が潜む暗闇にレトリックは通じない。レトリックを手放して、俺の肉体が楽器を通じて音楽を呼び出し、レコーディングやライブで成果を生み出すことでしか美しさを現前させる方法はなかった。それは降霊術みたいだなと配線とエフェクターボードをチェックしながら、何度も挑んだこの儀式によってすでに呼び出されたことのあるはずのなんらかの不可視の存在を想像している。
やるのは俺なんだからな。
慣れ親しんだレトリックを頭の片隅に追いやる。
鏡に映った己の姿を見る。
フェンダー・ジャズベースのローズウッドの指板。同じ場所がすり減ったフレット。
レトリックにはその場で観察してもらう。あとで可能な限り正確な言葉を見つけ出せるように。
ゴミ箱のセイレーンは笑っている。
ひとりでは出来ないことをする。
向かい合い同時に息をつく、聖が俺を見る、瞬間、
別にこいつの、こいつらの代わりに、俺の形代(からだ)はここにいるわけではないよなと、ふと確信した。