言葉をこらす
私はときどき作品への感想・批評や、流行りの揉め事に対する私見を書いて自分のサイトに公開している。それらのテキストは(本当に不本意ながら)私の小説作品や私が本心から記したかった日記よりもプレビューが伸びる(プレビューが伸びるからといって誤解なく熟読されているとは限らない)
小説はオリジナルだが、それらのテキストは流行りの現実に対する二次創作なので、流行り物が手に取られるのは当然だろう。その手のテキストをここではあえて「二次創作」と書く。
二次創作に対する感想を貰っても、ほとんどのケースで私は感想を嬉しいと感じないと最近ようやく自覚できた。「テキストを読まれることをありがたく思わなければいけない」という儀礼は感じる。感じられる感情のうち、形式的な儀礼が約50%あり、本心からの感謝を抱くべき残りの50%は虚無の念だ。
私が書かなくても良かったテキストに読了の報告を貰っても、それは「私への(この書き手への)」感謝ではなく、物申してくれる誰かを待っていたなかでたまたま私が欲されていたテキストを書いただけだった。「物申してくれる“誰か”」は人格ある他者ではなく、関数かbotとして。
「今までもやもやしていたことが言語化されてすっきりしました」例えばこんな感想をもらう。
そうか、と思う。そりゃそうだよ。これだけ言葉を言葉をこらせば真に迫ることはあるよ。最低8000字〜10000字はある。
「今までもやもやしていたことが言語化されてすっきりしました」は褒め言葉ではない。けなす言葉ではないが、そこにある情報は「無」である。リンゴが赤や緑色であることを書いたテキストの感想が「リンゴは赤や緑色なんですね」であることと同じなのだ。「今までもやもやしていたリンゴが言語化されてすっきりしました」
でもそれは私ではなくあなたが自覚すべきことだったんじゃないかと考えてしまう。もやもやとなにかの違和感を覚えることは出来たのだから、違和感の内側に踏み入ることもできたのではないか。
おわり
しかし、走るのが苦手な人やボールをまっすぐ投げることが苦手な人もいるように、感じ取ったものを思考のなかで再構成することや、まとまった形のテキストや別の媒体に作り直すことが苦手な人もいる(だから「物申してくれる誰か」に頼ってしか「今までもやもやしていたことが言語化される」ことがない人がいる)らしい。身体能力と思想する能力、また学習技能のそれぞれのスペクトラム、先天的な向き不向きと、幼少期〜思春期の環境・経験・教育指針によって得る能力差は、安易に触れたくないのでこれ以上は書かない。
うろ覚えだが以前こんな旨のツイートを見かけた。「私は身体が弱いので~という自己申告に対しては個々人の生まれ持った体力差があるのでそれを批難することはないが、私馬鹿だから〜という人に対しては途端に緊張が走る」
とはいっても、読者各位と私がそれぞれにどのような能力を持っていようと、どのように能力が違っていようと、
読者にとって流行りの二次創作を書いた筆者は人格ある存在ではなく時流に合わせた言葉を吐くbotであるように、私も読者が人格ではなく情報のまとまりにしか見えなくなっても、
ここまで書いて「違和感の内側」から引き返すことにした。