旅行記:2018年2月長崎4
# 青い光
平和公園から徒歩で浦上天主堂へ向かう。浦上天主堂は爆心地からわずか500m地点に位置するカトリック教会だった。 1567年長崎にキリスト教が伝来し、キリスト教が禁止されてから日仏通商条約により居留地のフランス人のために大浦天主堂が作られるまで200年以上の間、長崎のキリシタンは潜伏して信仰を守っていた。1867年に樹立した明治政府も当初はキリシタンを禁止し、信徒の分断を行った。
信徒の居住地を勝手に分断する手口は、キリスト教徒によるユダヤ教徒差別(ゲットー)と同じ
キリスト教が解禁されたのち、各地に流配された信徒たちは浦上に戻り、自分たちで土地を買って聖堂を建築した。1925年にようやく完成したレンガ造りのロマネスク様式の天主堂は、東洋一の大聖堂と称されたという。
それが、同じキリシタンが建国した国の兵器によって壊滅された。
私はどうしたらいいのかよく分からない。
原爆の爆風で吹き飛ばされた鐘楼が、その当時のまま野ざらしに保存されている。聖人たちの石像は熱線で黒く焼け焦げ、爆風によって欠損している。境内の看板が宗教弾圧と原子力爆弾のふたつの被害を伝える。
大聖堂のステンドグラスは、イエスの生涯を描いた連作だった。冬の終わり、傾きはじめた午後の光がステンドグラスを通じて礼拝堂に色をもたらす。しかし私はイエスの生涯を描いた物語よりも、ステンドグラス全体の青い色調と、ステンドグラスを囲む青い無地のガラスに釘付けになった。ステンドグラスを通じて礼拝堂に落ちる光は、何の絵柄も表さない単一の青い光だった。その青には何の意味もない。
青1色で絵を描いたイヴ・クライン(1928 - 1962)の作品が比較にならないほど、礼拝堂の光は青かった。誰もいない水族館の大水槽の前にひとり立っているときのように、青いだけの静寂が広がっている。
クラインは自分の作品のために「インターナショナル・クライン・ブルー」という青色を自作した。そこには作家がもつ青色への強い意志が見られる。対して、浦上天主堂のステンドグラスの青色は、選択の余地もなく結果的に青くなっただけ、という感じを受けた。キリスト教美術で青は聖母マリアの色とされており、ステンドグラスにもマリアは描かれていたけれど、この空間の青色に、私はマリアやイエスといった登場人物を感じなかった。
光はただ青かった。そこに意味や物語はなく、ただ青いだけの青。
物語ることのできない悲しみがある。光は、この悲しみについて、いっさいの絵を描くことをできず、ただの青色として礼拝堂に存在している。
ステンドグラスで2000年前の古いイエスの物語を描くことはできても、この土地の受難は未だ物語にできないのではないか。青い光のなかで私はそのような空想を抱いた。
この青い光はいかなる物語でもない単色の悲しみ、なのだろう。
怒りや悲しみのような激情に頼らずに記憶する方法が、芸術だと思っていたが、単色の悲しみでしか記せないものもあるのだと知った。
# 爆心地公園・長崎原爆資料館
【写真】
プルトニウムの風に吹かれてゆこう
長崎駅前にFM長崎のスタジオがある。甲本ヒロトの歌声が聴こえたので、どきっとしたが、流れたのは『TRAIN TRAIN』だった。この土地でTHE BLUE HEARTSの『旅人』はどんな受容をされたんだろう。
--------- 年表などメモ ---------
(浦上天主堂パンフレット、展示碑より)
1569 長崎に教会建設 信徒約1500人
1584-1587 イエズス会領
キリスト教禁止令 → 潜伏キリシタン
1865 「信徒発見」
1858 日仏通商条約「居留地内にフランス人のための礼拝堂建設を認める」
1865 完成したばかりの大浦天主堂を浦上の潜伏キリシタンたちが訪問、プチジャン神父に二百数十年にわたる秘密の信仰を告白
1867 「浦上四番崩れ」(キリシタン検挙事件)信徒流配
1867 大政奉還により明治政府樹立
神道国家主義体制のもと、浦上キリシタンに対し「全村民3394名を名古屋以西10万石以上の大名、21半22箇所へ流配し棄教を強いる」 明治政府によるキリスト教弾圧は西欧諸国に強く反発され、岩倉使節団帰朝後(1873)には信教の自由を保証することが要求される
1868-1873 信徒たちの流配
1880 流配から帰ってきた信徒たちにより、浦上天主堂の仮聖堂を建立
1925 浦上天主堂完成、「東洋一の教会」と称される
1945 浦上天主堂 原爆により倒壊
1946 浦上天主堂 木造の仮聖堂を再建
1959 浦上天主堂 鉄筋コンクリート製の聖堂を再建
1981 浦上天主堂 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世来訪
潜伏キリシタンたちの監視は被差別部落民に命じられた。浦上では、潜伏キリシタンと部落民、差別される弱者同士が手を組まずに差別しあうように仕向けられていた。
原爆投下によってキリシタンの住居だけでなく、被差別部落民の住居230戸もすべて焼け落ちた。
原子力爆弾ファットマンは当初、広島と同じく軍事拠点である小倉に投下される予定だったが、天候により長崎の市街地(眼鏡橋付近)に投下目標が変更された。「ボックスカー」から投下されたファットマンは、目標地点から北に3kmそれた浦上上空で炸裂した。
広島の比較的平坦な地形と異なり、長崎は山がちな地形で、原爆が炸裂した北部の浦上と南部の市街地は山で隔てられているため、浦上の被害状況に対し、南部の市街地は爆風や熱線の被害を比較的免れた。原爆が長崎市街ではなく「浦上」に落ちたことを、浦上のキリシタンが「(日本の)神様をお参りしなかった天罰」と言ってはばからない者もいた。